第22話 あと出し
文字数 1,623文字
ホームに到着した電車には、観光客らしい外国人が目立って多かった。
席に腰掛けひと息つくと、初は手さげの書類を眺める。帰り際、医者がよこした同意書の控えで、倅三の癖のある署名が踊っていた。
「病名 主膵管型膵管内乳頭粘液性腫瘍(がん)
手術名 亜全胃温存膵頭十二指腸切除術+リンパ節郭清
所見 観社さんの場合は、浸潤がんの可能性があります。浸潤がんであった場合に、手術を行わず、抗がん剤治療が効かなかった場合は、七カ月が生存期間中央値です……」
初は思わず声をあげそうになり、口を押さえる。
書類はこう読めた。
なにもしなければあと七カ月しか生きられなくてもおかしくない、と。
急いで手さげをかき回し、スマホをつかむ。「生存期間中央値」を調べ、この文脈にあてはめてみる。
膵臓がんが見つかった際に手術を受けず、抗がん剤治療も効かなかった患者が九十九人いたとする。五十番目に亡くなる患者が生きた期間、それが今回の生存期間中央値だ。
将加医師は「手術で取り切れる」とメモに書いた。倅三もそのつもりで桐鯛医師に会っている。
それなのに浸潤している可能性はぬぐえないと、同意書にはある。手術を受けなければ七カ月後に死んでいる可能性も十分ある。そんな風に書かれていた。
もう一枚、同意書と一緒に渡された紙は、病院長からの挨拶文だ。
「医学は急速な進歩を遂げております。
しかし、まだまだ不明な点も多く、ときに思わぬ重大な合併症や事故が起こります。万が一、このような場合にも最善の治療を尽くしますが、稀に不幸な結果に至ることもあります。
主治医より十分な説明を受け、理解、納得した上で同意書に署名を……」
医療に絶対はないのだろう。しかしこれはずるくないか? いい面だけを強調し、口頭で手術の同意を取りつける。そのあとから、書面で、リスクを覚悟せよ、と言っているのだ。
初は、先ほどまであった手術への希望と高揚感が、急速にしぼんで行くのを感じた。
密かに動揺する娘の隣で、乃津麻は財布から紙切れを大事に取り出していた。焼肉チェーンのクーポンだ。生ビールが一人一杯無料になるというぺらぺらの紙片を、うれしそうにかざす。
「ねぇ、初。もう疲れたからここに行かない? 焼肉でいいでしょ? お父さんも好きだし。早くご飯を食べて、ゆっくり寝たいわ」
思い起こせば観社家の団欒は、安い焼肉だった。
初が中学から高校にかけて、音人がまだ小学生だったころ、倅三が家にいる日曜は、チェーンの焼肉屋に出かけた。店が混む前、午後五時あたりから、とりとめのない話をして、盛大に肉を焼いたものだ。
よく食ったなぁ、と倅三が満足げに楊枝を使うとお開きだ。初と音人は乃津麻がレジでもらったミントガムを口に放り、四人で倅三の車に向かった。
焼肉屋に行かない日は回転寿司だ。帰りには必ずマクドナルドに寄った。
家に着くと皿に出すのももどかしく、ハンバーガーを頬張る。『サザエさん』を見ながら、フライドポテトやアップルパイにも手を伸ばした。
子供たちは食べ盛りで、倅三も乃津麻も若かった。
そんないつもの日曜に、ほのぼのした幸せがあった。
電車を降りて連れて行かれたのは、倅三たちの家に近い雑居ビルだ。時々行くらしいその店で、倅三はカルビ四皿とレバー、ユッケを一人で平らげた。生ビールを大ジョッキで二杯、ご飯は大盛りと普通盛、さらに初が食べ残した分もさらった。
倅三の食べっぷりはあのころ変わらない。乃津麻も夫の食欲に顔じゅうを和やかにしている。
手術後しばらくはこんなに食べられないだろう。そう思うと、初には愛おしい時間だった。
翌朝、初が靴を履いていると、倅三がパジャマのまま玄関に降りてきた。
「もう帰るのか」
「うん」
「心配かけたな」
「いや……。じゃ、またね」
手を振りドアを開ける。
見事な青空だ。
新鮮な空気を胸いっぱい吸い、歩き出す。
倅三が手術をやめると言い出したのは、翌日だった。
席に腰掛けひと息つくと、初は手さげの書類を眺める。帰り際、医者がよこした同意書の控えで、倅三の癖のある署名が踊っていた。
「病名 主膵管型膵管内乳頭粘液性腫瘍(がん)
手術名 亜全胃温存膵頭十二指腸切除術+リンパ節郭清
所見 観社さんの場合は、浸潤がんの可能性があります。浸潤がんであった場合に、手術を行わず、抗がん剤治療が効かなかった場合は、七カ月が生存期間中央値です……」
初は思わず声をあげそうになり、口を押さえる。
書類はこう読めた。
なにもしなければあと七カ月しか生きられなくてもおかしくない、と。
急いで手さげをかき回し、スマホをつかむ。「生存期間中央値」を調べ、この文脈にあてはめてみる。
膵臓がんが見つかった際に手術を受けず、抗がん剤治療も効かなかった患者が九十九人いたとする。五十番目に亡くなる患者が生きた期間、それが今回の生存期間中央値だ。
将加医師は「手術で取り切れる」とメモに書いた。倅三もそのつもりで桐鯛医師に会っている。
それなのに浸潤している可能性はぬぐえないと、同意書にはある。手術を受けなければ七カ月後に死んでいる可能性も十分ある。そんな風に書かれていた。
もう一枚、同意書と一緒に渡された紙は、病院長からの挨拶文だ。
「医学は急速な進歩を遂げております。
しかし、まだまだ不明な点も多く、ときに思わぬ重大な合併症や事故が起こります。万が一、このような場合にも最善の治療を尽くしますが、稀に不幸な結果に至ることもあります。
主治医より十分な説明を受け、理解、納得した上で同意書に署名を……」
医療に絶対はないのだろう。しかしこれはずるくないか? いい面だけを強調し、口頭で手術の同意を取りつける。そのあとから、書面で、リスクを覚悟せよ、と言っているのだ。
初は、先ほどまであった手術への希望と高揚感が、急速にしぼんで行くのを感じた。
密かに動揺する娘の隣で、乃津麻は財布から紙切れを大事に取り出していた。焼肉チェーンのクーポンだ。生ビールが一人一杯無料になるというぺらぺらの紙片を、うれしそうにかざす。
「ねぇ、初。もう疲れたからここに行かない? 焼肉でいいでしょ? お父さんも好きだし。早くご飯を食べて、ゆっくり寝たいわ」
思い起こせば観社家の団欒は、安い焼肉だった。
初が中学から高校にかけて、音人がまだ小学生だったころ、倅三が家にいる日曜は、チェーンの焼肉屋に出かけた。店が混む前、午後五時あたりから、とりとめのない話をして、盛大に肉を焼いたものだ。
よく食ったなぁ、と倅三が満足げに楊枝を使うとお開きだ。初と音人は乃津麻がレジでもらったミントガムを口に放り、四人で倅三の車に向かった。
焼肉屋に行かない日は回転寿司だ。帰りには必ずマクドナルドに寄った。
家に着くと皿に出すのももどかしく、ハンバーガーを頬張る。『サザエさん』を見ながら、フライドポテトやアップルパイにも手を伸ばした。
子供たちは食べ盛りで、倅三も乃津麻も若かった。
そんないつもの日曜に、ほのぼのした幸せがあった。
電車を降りて連れて行かれたのは、倅三たちの家に近い雑居ビルだ。時々行くらしいその店で、倅三はカルビ四皿とレバー、ユッケを一人で平らげた。生ビールを大ジョッキで二杯、ご飯は大盛りと普通盛、さらに初が食べ残した分もさらった。
倅三の食べっぷりはあのころ変わらない。乃津麻も夫の食欲に顔じゅうを和やかにしている。
手術後しばらくはこんなに食べられないだろう。そう思うと、初には愛おしい時間だった。
翌朝、初が靴を履いていると、倅三がパジャマのまま玄関に降りてきた。
「もう帰るのか」
「うん」
「心配かけたな」
「いや……。じゃ、またね」
手を振りドアを開ける。
見事な青空だ。
新鮮な空気を胸いっぱい吸い、歩き出す。
倅三が手術をやめると言い出したのは、翌日だった。