第14話  向かう先

文字数 2,178文字

 初夫婦と会食した夜、倅三は別れ際に駅のホームで自ら確認した。
「明日は別之クリニックだな。家で待っているよ」
「頑張って朝起きるからね。遅刻しないようにするから」
 早起きが苦手な初は気合を入れた。しかし翌朝、実家のリビングに姿を見せると妙なことになっていた。
「俺も考えたけれど、別之さんはもう行かなくてもいいだろう、初」
「どうして? せっかくだから行こうよ。病気の話をちょっと聞いてもらう感じで。カタく考えないでさ」
「昨日十分話を聞いてわかったから。もういいと思うよ」
 乃津麻からなにか言われたに違いないと、初はピンときた。「お母さんは俺が別之さんにかかるの、嫌がるんだよなぁ」と以前倅三が漏らしていた。それと関係がありそうだ。
 数日前、予約をしようと初はクリニックに電話を入れた。大先生の診察日は大変混むが予約制ではないので直接来るように、とのことだった。
 九時の診察開始に備え、八時半に現地到着するつもりで初は都心のホテルを出ていた。
 朝が弱い彼女が倅三のために六時に起きた。そこまでしたのに倅三はやめるという。初はなぜか腹が立たなかった。そんなこともあろうかと薄々想像していたからだ。
「でもせっかくだから行ってこない、お父さん? 今行けば朝一番だよ」
「お前一人でいいよ、話を聞くのは。車で送ってやるし、終わるまで待っているから」
「それなら一緒に話を聞こうよ。外で待つか診察室で待つかの違いでしょ」
 ふと気づくと、さっきまでリビングにいた乃津麻の姿が見えない。
「そうか。じゃちょっと行ってくるか」
 妻が席を外したせいか、倅三はやっと重い腰を上げた。

 恰幅のいい別之医師は、八十過ぎらしからぬよく通る声だ。
「うちには九十歳で心臓の手術をした患者さんがいらっしゃいますよ。八十歳だから高齢で手術は危険、って単純に考える時代じゃないな。メリットが大きいと判断すれば医者は勧めるし、患者さんも受けますね」
 物言いがどこまでも深刻な大学病院の将加医師とは正反対である。
 別之医師の明るくおおらかな人柄に、初は好感が持てた。検査と手術は別、とのことだがそれは初が何度も倅三に説いてきた話だ。だが経験豊富な医師の口から出ると説得力が違った。
 おかげで倅三は検査に前向きになった。
 気が変わらないかと初はハラハラしたが、検査に行った倅三は、今度は手術を勧められ、落ち込んで帰ってきた……。
 ここまでの報告を聞き終えたともが顔を上げる。
「お父さんの恐れていた流れだね」
「見た瞬間わかったと思うよ、これはがんだって。
 次回は午前中、心臓が手術に耐えられるかの検査。午後は結果発表。『ご病気が進む前に外科の先生から手術の説明を聞いて欲しいです』って、医者が父に持たせたメモに書いてあった」
「うわぁ、そんなところまで来ているの!」
「だから明日から実家なの。明後日病院に行くまで見張るのよ、父が逃げないように。ちょうど弾もアメリカ出張だし」
 初は実家になどほんとうは行きたくなかった。乃津麻と距離を置きたいが、倅三は人質だ。ここで手放せば救えたはずの命を失うことになる。
 さらに、首を突っ込むなとなじられた話をした。黙って聞いたともは結論づけた。
「お母さんは思考停止しているね。お父さんの病気、受け入れられないみたい」
 母の異常な言動は夫の病を受け入れられないせいかと、初ははっとなる。だったらなおさら、前向きに道を切り開ける長女に事を委ねるべきではないか? 理不尽な乃津麻への怒りがふつふつと湧いてくる。
「檀が言っていたよ、手術は体にどうしても負担がかかるから、回復が大変だろうな、って。お母さんもそれが心配でしょうね」
「とにかく、明日行って泊まりながら父の相手をするわ。明後日は検査結果を一緒に聞いてくるし」
 なにがなんでも倅三を捕まえておかなくてはならなかった。

 夕食を終えると、初はパソコンに向かい、久しぶりにすい臓がんについて調べた。
 がんの疑いがあると聞いたとき、少しでも安心したくてインターネットにすがった。不安が増しただけだった。
 その不安を打ち消そうとさらに情報を漁った。目が疲れ、肩がこり頭が痛くなった。首を突っ込むなと罵倒されたことが思い出され、ぐずぐず泣いた。
 まだがんと決まったわけでもないのに、もうふらふらだ。
 もしがんとわかれば大変なのはその後だ。倅三を支える気力や体力を残しておかなければならない。ここで力尽きるわけにはいかなかった。
 いつ書かれたかわからず、文責者が誰かもはっきりしないネット情報なんて怪しいものだ。とにかく検査結果を待って医者の見立てを聞いて考えよう。
 やっとまっとうな思考にたどり着いて、あのときはリサーチを止めた。
それなのに今、再びパソコンに向かっているのは、倅三が持ち帰ったメモのせいだ。乃津麻がメールしてきた写真には、「IPMN—良性、IPMC—悪性」と医者が書いたメモが写っていた。電話に出た倅三はさっぱりわからない様子だった。
「良性のIPMNだと良かったのだけど、悪性のIPMCみたいだって言うんだよなぁ」
 IPMNやIPMCとは一体何なのか。
 すい臓がんについて詳しくなったつもりでいたが、初めて聞く言葉だった。

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