第1話  父は狂ったのか!?

文字数 4,584文字

 こんがり焼けたパンを取り出しているときだった。(あるふぁ)は隣家の桜にふと目を留めた。そこに電話が鳴った。
 「あんた、なんで電話してこないの。連絡が取れないと困るでしょ、初。わかっているわよね、今大変なのは」
 母・乃津麻(のつま)の、いつもの不機嫌だ。

 大磯の駅裏の坂の上にある初の家は、都内の開業医が建てた別荘だ。敷地は広くないものの、開口部が一面ガラス張りの洒落たコンクリート造りだ。
 どの部屋からも海が見渡せるだけでなく、隣の元海軍中将の別荘とやらの見事な庭が借景できる。なかなかの立地である。
 「駐車場はもちろんございます、立派なビルトインガレージが。ただ、一台分なのです。二台、三台は置けません。車好きのオーナー様には、その点がちょっと引っかかるようで……」
   案内の不動産屋によると、それが新築間もないセカンドハウスを惜しげもなく手放す理由だった。
  初と(はず)はその家を譲り受け、三年が経つ。所有車は軽が一台。車庫に不満はない。手入れの行き届いた隣家の植栽を、梅や桜、藤から紅葉までテラスから眺める。そうやって季節の移ろいを楽しんでいる。
 昨日のゲストはフランスからのカップルだった。花見がてら、造形作家の初の個展に来日した。久しぶりに話し込むうち、初はすっかり忘れた。父親の入院も、母からの着信記録も。

 ウグイスが誇らしげに声を響かせていた。清々しい日の光を浴びて、弾は二階のテラスにパラソルを広げる。サックス奏者の弾は、今日も仕事は午後からだ。ボンボンベッドに横たわり、市街地の向こうできらきらひかる海を眺めるのだろう。
 南国生まれの弾は、自称“太陽王子”だ。こんな日は四月の花冷えだろうと気分は夏。タンクトップに短パンと、見るほうが寒くなる格好で、日光浴にいそしむ。

 初は電話の相手をしながら、パンやヨーグルト、搾りたてのみかんジュースをテラスに運んだ。乃津麻はまだ、くどくどと言葉を連ねていた。
 「それで、なにかあったの? オレオレ詐欺にでも引っかかった? それとも、浅草で外人にナンパされたとか?」
 「お父さん、気が狂ったわよ。
 昨日、病院に行ったら目がすわっているの。ベッドにあぐらで『警察を呼べ、初を呼べ、四人組が俺の血を全部抜こうとしている』って大騒ぎ。これで死ぬかもしれない。とにかくすぐに来て」
 今にも泣き出しそうな声で、電話は切れた。初は乃津麻の子供じみたやり方に慣れているつもりだ。それでもデッキチェアに座り込むと、ため息が漏れた。
 「お父さん、どうしちゃったの、大変だね。早く行ってあげないと。お義母さんは世話焼きだから、心配だろうに」
 「聞こえた? 心臓で入院して、頭に影響が出るのかな? 狂った、ってどういうことだろう。全然わからない」
 初はのろのろとジュースに口をつけた。

 乃津麻に電話をかけなかったのは、フランス人の接待で忙しかったからだ。しかしそうでなくとも、母とはなるべく話したくない気持ちが、どこかに潜んでいる。
 いつからそんな気分なのか、自分でもわからない。ただ母を思うと決まって、重いような、苦しいような、にがい感じがする。
 それでいてそこから逃れてはいけない。そうした心持ちは微塵もなく振る舞わなくてはならなかった。
 いつでも手を差し伸べられるよう側につかえなさい。それが長女の務めだと、心が戒めた。
 「母親にとって長女とは、都合のいい女。
 長女は頼られるとうれしくて、期待に応えようと頑張るでしょ。長女気質っていうか、長女根性っていうか、それが問題」
 豪快にワインを空けて看破したのは、初の中高時代の同級生・ともだ。やはり長女のともは、大きな目をさらに見開く。
 「母親は長女気質につけ込んで、『お姉ちゃん、偉いわね』って自尊心をくすぐるの。そうやってどこまでもパシリのようにこき使う。ほんと、タチ悪いったらありゃしない」
 なるほどと初を感心させたのは、まさにこのテラスで梅見をしたついひと月前だ。
 
 ともと初が通った女子ばかりの学校は、一学期はあいうえお順で席が決まった。六年間、偶然同じクラスだった神崎(かんざき)ともと観社(かんじゃ)初の間に、割って入る苗字はなかった。毎年四月から七月にかけて二人は席を並べ、絆が深まった。
 偶然の巡り合わせで、今や互いの家まで徒歩数分の距離だった。中学・高校時代より行き来も多く、お茶だお酒だとしばしば顔を合わす。

 早食いの癖がある弾は朝食を終えていた。組んだ手を頭上で返し、気持ちよさげにあくびをひとつする。
 「初、今日はお義母さんと喧嘩しないようにね、仲良くしてね。実家に帰るたびに乃津麻さんの悪口を言っているよ。でも初はお義母さんそっくりだぜ」
 ぎくりとした。子供のころから、お母さんそっくり、と言われるのが嫌でたまらない。
 顔形だけでなく、どうやら声も似ているらしかった。
 小学校に上がって間もなくのころ、初は風邪で学校を休んだ。放課後、担任が家に電話を寄越したが、初は最後まで、母ではないと言えなかった。
 「容姿も似ているけれど、きついところのある性格がそっくりだよ。お義母さんの悪口を聞かされると、それは自分の話だろう、って密かにツッコミを入れているの、いつも」
 そうニヤニヤされるのが初にはなおさら癪にさわった。

 母親を好きか嫌いか二択で選ぶなら、初は迷わず嫌いを選択する。その嫌いな母親に忠を尽くさねばならぬと感じる複雑な思い(コンプレックス)は、長年培われた毒だ。
 初が幼いときから乃津麻は常に不機嫌だった。突然口をきかなくなることもしょっちゅうだ。なにか悪いことでもしたのかと初は不安になった。
 「ねぇ、怒っているの?」
 顔色をうかがうが返事はない。
 「怒っていない?」
 「……」
 「なんで喋らないの?」
 「……」
 「ほんとうは怒っているんでしょ?」
 「……」
 なんでもいいから言ってほしかった。だが、眉間にしわを寄せ台所に立つ乃津麻は、かたくなに話さなかった。
 こんな母の顔が輝く瞬間があった。
 「あんたは橋の下で拾ってきた子だから」
 と告げるときだ。
 そのたびに初は、なんとかして嘘だと言わせようとした。しかし母は真面目な顔を崩さない。
 「ほんとだってば。嘘つくはずないでしょ」
 そう娘を黙らせた。
 ある晩のこと。夕飯を済ませ家族でくつろいでいた。初は小学校に上がる前で、弟の音人(おとひと)はまだ小さかった。
 あんたは橋の下で拾ってきた子、と例の話が始まった。初は今日こそ嘘だと白状させようと自信を持って反論した。
 「じゃあなんで、赤ちゃんの私の写真があるの」
 長女で第一子の初には音人よりはるかに多くの写真が残されていた。
 まだ目も開かない新生児に授乳する母。おくるみの赤ちゃんを愛おしげに抱く母。その子は紛れもなく初で、見つめる母は幸せそうに微笑んでいる。父が見当たらないのは写真を撮っているせいだ。
 写真の話をすれば言葉に詰まるはずだった。
 しかし、乃津麻は聞こえないふりで席を立った。初にはあの冷たい目が忘れられない。

 母は不調を抱えていたと、今では理解できる。原因は複雑だったと聞いている家庭環境にあるのか、本人の個性か。
 精神的に不安定な母の困難を感じて、幼い初は助けになろうと務めた。
 乃津麻はパートに出たが、どこも長続きしなかった。パン屋をすぐに辞めたときは、尻込みする母の代わりに、初が三日分の給料を回収した。
 音人の小学校受験のころ、乃津麻は青果市場の事務員だった。電車を乗り継ぎ、お受験対策塾への送り迎えをしたのも初だ。
 どちらも初が十歳前後の話だ。
 音人をスイミングスクールに送り届けると、よその母親と一緒にレッスンを眺めた。
 「あらお姉ちゃん、まだ小学生なの? しっかりしているわねぇ。高校生かと思った」
 世間話の末に、そう驚かれたこともある。
 子供時分からこまごまと、母を支え、助けてきたつもりだ。ちっとも嫌ではなかった。むしろ役に立てていることが喜びだった。
 でももし今そんな子がそばにいたら、かわいそうにと憐むだろう。

 母娘の関係が危うかった一方で、父・倅三(すいぞう)は心のオアシスだった。
 弾とつき合い始めたころ、父親についてこう話した。
 「私に多くを望まない人、生きているだけでいいと思っている人。あんな人はどこにもいないよ、丸ごと私を肯定している」
 今日は父の日だからプレゼントしよう、と子供たちをおもちゃ屋に連れて行った。初の話によく耳を傾けた。声を荒らげて怒鳴ることなど一度もなかった。
 大抵の質問には答えられる物知りで、わからないことは調べて教えてくれた。頼もしい父親だった。
 個人タクシーの運転手を生業にしていたが、より稼げるようにと夕方から、割増料金がつく深夜にかけて働いた。
 子煩悩な倅三は、すれ違いがちな初や音人とホワイトボードでやりとりをした。夜中に子供部屋に行き、ずり落ちた布団をかけ直した。そのとき、初は起きて父を驚かせた。それが楽しみだった。
 大学生になった娘についての倅三の心配は、ちゃんとご飯を食べているか、だ。眠れているか、風邪など引いていないか。つまり、初が健やかでいることだけが望みだった。
 なにかをしなさいとかしちゃいけないとか、命じて干渉することはない。そんな倅三を、弾と結婚するまで初は、お父さんが死んだら後追い自殺も悪くないと、半ば本気でいた。

 「ほら、大好きなお父さんが待っているぞ、初。ぐずぐずしてないで早く行ったら。またお義母さんに文句言われるよ」
 トーストがいつまでも減らなかった。初はカップに残ったラプサンスーチョンを飲み干す。
 「そうだ、昨日のお客さんに個展のお礼を伝えてね。掃除機のお面を買ってくれたの、二十万円で。ちゃんと梱包するから飛行機で持って帰れるよ、って」
 「二十万? そりゃ詐欺だな」
 弾はボンボンベッドの上で呆れる。

 ほんとうは美大に行きたかったのに、初は初法学部に進んだ。つぶしがきくから、と乃津麻に押し切られたせいだ。「教員免許もついでに」としつこく繰り返され、教育実習にも行った。
 バイト先を法律事務所からこっそりデザイン事務所に変わるなど、反抗してはいた。でも、母にどこか操られているのが腹立たしかった。
 卒業後はバイト先にそのまま就職したが、それを知った乃津麻の絶望は、三十年近く経っても思い出せる。
 就職後数年経ったころ、売るあてもない趣味の作品がひょんなことから広告に使われた。それをきっかけに造形作家として歩み始めた。
 乃津麻はしばらく、ゴミで動物を作ってなにになるのよ、と散々だった。個展で作品も売れるのだと、父が明かすまで文句は続いた。

 布の手提げにスマホと財布を突っ込むと、初は駅に向かった。
 坂を転げるように下ると、銀鼠の立派な瓦の日本家屋が見えてきた。庭で草むしりするともではなく、運送会社のトラックが視界に入る。

 段ボール箱が次々と運び込まれる様子に、胸騒ぎがした。
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