第30話  ひとりにしないで

文字数 1,658文字

 倅三に聞こえるようにと、医師の言葉の切れ目に、初は大きな声でかいつまんだ。
「病院を代表する先生たちだから、手術は大丈夫だって」
 ひときわ強調して伝えると、倅三は力強くうなずいた。
 輸血や身体拘束の可能性を伝えられ、最後に倅三がすべての書類にサインする。今駄医師はやっと部屋を後にした。
 カーテン越しの陽光は盛りを過ぎていた。バッグからスマホを取り出せば、もう三時だ。
「そろそろ帰るよ、お父さん。明日は午前中予定がないみたいだから、一時ごろ来るね。脱走しちゃダメだよ」
「大丈夫、心配ない。帰るなら俺もエレベーターまで送って行くよ」
 廊下を並んで歩く途中にシャワー室を見つける。倅三は予約表の自分の名前を指でなぞると、「よし」と声を出した。
 エレベーターはすぐにやって来た。
「じゃあ、明日ね」
 ドアが閉まるまで倅三は、直立姿勢で手を振った。
 初はすぐにでも座り込みたかった。しかしエレベーターの手すりに腰掛けることで、なんとかしのぐ。
 特別なことはしていないのに、なぜここまで疲れるのか? 病人に生気を吸われるようだ。病院は健康な体が餌食にされる場所なのか?
 楽しいことがしたかった。疲れている場合ではない。父親の病につぶされるのはまっぴらだ。
 明日、見舞いの前にどこかに寄ろう。泳ぐ? ヨガ? 行きたい美術展もあるし……。

 しかし翌朝、目覚めたとき、その気は失せていた。体が重く、布団から出られない。とはいえ目を閉じても、脳が興奮している。
 だらだらと過ごすうちに昼になり、初は早めに家を出た。
 倅三が逃げていないか、不安がないわけではない。ドキドキしながらエレベーターを降りると、ラウンジのソファで雑誌を手にする父の姿が目に入った。それだけでありがたかった。
 集中治療室を見学したあと、麻酔医との面談に赴く。
 名前と生年月日を言わされた倅三の前に、タプレットが置かれた。
「こちらをちょっとご覧いただけますか。大体わかるようになっていますから」
 女性の麻酔医が明るい笑顔を向ける。手術室での流れを動画で学習するようだ。
 背中に針を刺す硬膜外麻酔、鼻と口をマスクで覆う全身麻酔。模擬患者を相手に進む様子を、初は薄目を開けてなんとか見る。その横で倅三は、案外けろっとしている。
 予定のオリエンテーションを終えると、初は一刻も早く逃げ出したかった。大病院の宿命か、この日もことあるごとに待たされた。医師の説明の合間には、倅三が安心するよう大きな声で繰り返した。それだけなのに、だるくてたまらない。
 明日こそ大事な手術日だ。朝も早い。体力を温存しなければ。
 さっきから喉の渇きが気になっていた。倅三とエレベーターに向かう途中、談話室に立ち寄る。自販機でペットボトルのお茶を買い、口をつけて歩き始めた。
「初、どうせなら座って飲んで行ったらいいじゃないか」
「大丈夫、大丈夫」
「なんだ、お茶を飲む時間もないのか」
 とがめるような響きにハッとする。帰ってほしくないのだ。
 初は談話室のスチール椅子を引いた。
「この間の焼肉はうまかったな。また皆で食べに行きたいな、初」
「そうだね。すぐだよ」
 看護師によると、倅三は昨日から血糖値が上がっているようだ。まだ膵臓を切ったわけではないのに、なぜ血糖値が上がるのか。手術を明日に控えての緊張か。
 四時半にはシャワー室を予約してあった。その後は夕食、食後に回診、そしてほどなく消灯だ。倅三はシャワーまでの時間、初にいてもらいたいのだろう。
「ほら、お父さん。もうすぐシャワーでしょ。私もそろそろ帰ろうかな。お母さんが心配するしね」
 あたりさわりのない理由をつけ、やっと席を立つ。談話室の時計は四時を指していた。
 もう限界だった。父の代わりに入院し、すべてから解放されたい。点滴でもしながらまどろんだら、どんなにいいだろう。
 倅三の病がわかってから、初は毎晩入眠導入剤を飲んでいる。それももう効かない。
 疲れてはいけない。
 疲れたところを見せてはいけない。
 そう気を張るからこそ、余計に消耗した。 
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