第8話 影がある
文字数 3,003文字
ともの元に芽が押しかけたころ、倅三は純冠医師の言葉通り一般病棟に移された。乃津麻の報告によれば、大動脈に変化はないが、原因不明の高熱で吐いたりしているとのことだった。
気にはなったが、初はそのままにしていた。すると乃津麻が電話をよこした。
「お父さんね、検査したら誤嚥性肺炎だったらしいの、ほら、戻していたでしょ。でももう一つ言われたの」
「なに? 早く言ってよ」
「膵臓に影があるって」
「影? がんってこと?」
「まだわかりませんけど、とは言われたけれど」
父が、がんかもしれない。
初に動揺はなかった。
がんはもはや死の病ではない。治療して治せばいいだけだ。
退院の日は決まっていた。前日に膵臓の検査結果が知らされると、乃津麻が軽い調子で言い添える。
「それ、私も行く。東京についでもあるし。待ち合わせは病院でいいよね。お父さんの病室? オッケー。時間は……」
電話はもう切れていた。
初にはその日、都心に行く予定などなかった。ただ、心配だから私も一緒に、と正直に明かせば、わざわざ来ることないのよ、と拒絶されるだろう。
普通に話せばいいものを、乃津麻は気に入らないことには食ってかかる。近所の人から家族まで、なにからなにまで気に入らず、つまりは常にイライラガミガミしている。
乃津麻が一方的に電話を切るのは不機嫌の一環だ。だから初は距離を置く。
しかし、父親の命を脅かす問題が起きては、こうした不愉快も我慢するしかなさそうだ。
二人を仲のいい母娘と思う人もいて、以前は弾もそうだった。
乃津麻を連れてソウルに行ったときだ。
「なんだかんだ言って、ほんとうは仲よしだよな。いいよ、意地を張らなくても。仲よきことは美しきかな、って知っているだろ」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。
そりゃオーストラリアや香港にも行ったよ。でも好きでやっているわけではない。全然違う。親孝行を強要する無言のプレッシャーを感じるから、仕方なくサービスしているだけ。
仲よくなれるかと努力した時期もあったよ。でも分かり合えないと悟ってからは、なるべく接触しないでいるのに」
と初は興奮したときの癖で声が大きくなる。
乃津麻に電話を切られ、気分を悪くしているところに玄関から人の気配がした。帰宅した弾は靴を脱ぐ間もなく、電話のやり取りを興奮気味に報告される。
「だいぶ君たちの奇妙な母娘関係をわかったつもりだった。でもなんで罪のない嘘をつく必要があるのかな? 検査結果が心配だから医者の話を聞きたいのは当然でしょ。なぜ乃津麻さんは君が来るのを嫌がるの?」
「偏屈だから、決まっているでしょ。論理的思考とか明確な理由とか、そういうのは全然ないの。なんとなく気に入らない、だから不愉快を垂れ流す。以上」
「それでお義母さんは、初が行くことを了解したの? あの人ならダメって言ってもおかしくないけれど」
「文句を言いたそうな間はあった。でも、あ、そ、って電話を切られた」
「君たちは実に面白いな」
クックと肩を揺らし沓脱に上ると、弾はサックスの入ったケースをひょいと担ぐ。
「晩飯まだだけど、なにかない? 続きは食べながら聞くから。腹減って倒れそうだよ」
とよろけて食卓へ向かった。
大動脈解離疑いで始まった倅三の入院は、予定通り二週間で終わることになった。
見舞いに行った日に咲き誇っていた桜は、もう若葉が茂っている。前回とは違った階で降りると、倅三の姿が目に入った。お仕着せのパジャマで足を組み、大型テレビの前でくつろいでいる。隣には乃津麻が、ロングスカートの下でやはり脚を組んでいた。
「お父さん、久しぶり。気分はどう? 調子はよさそうだね」
「初、よく来たな。気分はいいよ。俺はどこもどうもないし」
痩せて目が窪み、エラが張っていた。髪も心なしか薄い。それでも奇妙なことを口走る気配はなく、元の倅三だった。
「桜、散っちゃったね。満開のときはすごく綺麗だったよ。お父さん、病院でお花見はできたの?」
「談話室で缶コーヒーを飲みながらゆっくり眺めたよ。病室からも見えるし。高層ビルの病院は眺めがよくていいな。まあ座れよ」
「ここでいいのかな、待ち合わせは。どこで先生の話を聞くの? お母さん、なにか聞いている? 先生とすれ違ったら嫌だからね」
「ここでしょ。他にないわよ、話を聞く場所なんか」
「こんなところではないよ、きっと。だって、他の患者さんもいるし、テレビの音だって耳障りだし」
「病室だろ、きっと。俺のベッドのところだよ。病気の話は病室でするものだよ」
そうこうするうち純冠医師が小走りにやってきた。
「すみません、またお待たせしてしまって。早速始めましょう。こちらです。狭いけれど部屋がありますので」
倅三を先頭に「相談室」と表示のある小部屋に案内された。しっかりした足取りで医師を追った倅三は、心臓の模型とコンピューターが載った机の前に座る。初と乃津麻はその後ろに、折り畳み椅子を広げた。
まず入院の経緯と経過についての説明があった。大体はすでに乃津麻から聞かされ、知っていることだった。
「最初は大動脈解離を疑われていたのですが、膵臓にでき物があるのがわかりました。そっちのほうが心配なので、ここからは消化器の先生にお願いしますね」
入れ替わりに現れた将加医師は、三十代半ばと思われた。左利きらしく、高級時計の光る左腕を動かし、A4の紙に黒のボールペンを走らせる。
これが膵臓で、などと口に出して器用に描いたのは、明太子のような図形だ。胆嚢や十二指腸を加え、膵臓のつけ根を大きく丸で囲むと、その下に、膵頭と書いた。
「大動脈解離の診断をつけるために、まず造影剤を使ってCTを撮りました。胆嚢に腫れが見つかり、放射線科の先生からは膵臓にできものがあるのでは、と指摘されました。
そこでエコー検査です。観社さんの場合は腎臓があまりよくありません。何度も造影剤を使えませんが、もう一度だけ、造影剤CTを撮りました。
結果、十二指腸が変形していることがわかりまして、膵臓の膵頭部、ここに二十五ミリぐらいの腫瘍があるかもしれない、ということで……」
図に要点を書き加えるが、初には馴染みの薄い臓器ばかり。ちらりと目をやると、倅三も乃津麻も、ぴんとこない面持ちだ。
「膵臓の中には膵液が通る膵管があります。これは通常2ミリぐらいですが、観社さんの場合は腫瘍のせいで詰まっている。8ミリから9ミリに肥大しています。
この腫瘍は悪いものかもしれないので、M R Iと生検をお勧めします。ただ入院も長引いていますし、いったん退院して、改めていらしていただければと……」
医師の提案は、一週間後に日帰りM R I、続いて二泊三日の入院で生検を受けることだった。
倅三は「うーん」と唸って黙り込んだ。隣の乃津麻は口を硬く閉じている。
「悪いものだった場合、どうするのですか?」
初が医師の目を見た。
「手術をお勧めします。十二指腸と胆嚢、膵臓の一部または全部を取って再建する大掛かりなオペです。朝一番、8時半スタートで夕方の6時、7時までかかるでしょうね」
倅三にテレビを見ていたときの呑気さはなかった。
4月の気の早い冷房が家族の身にしみた。
気にはなったが、初はそのままにしていた。すると乃津麻が電話をよこした。
「お父さんね、検査したら誤嚥性肺炎だったらしいの、ほら、戻していたでしょ。でももう一つ言われたの」
「なに? 早く言ってよ」
「膵臓に影があるって」
「影? がんってこと?」
「まだわかりませんけど、とは言われたけれど」
父が、がんかもしれない。
初に動揺はなかった。
がんはもはや死の病ではない。治療して治せばいいだけだ。
退院の日は決まっていた。前日に膵臓の検査結果が知らされると、乃津麻が軽い調子で言い添える。
「それ、私も行く。東京についでもあるし。待ち合わせは病院でいいよね。お父さんの病室? オッケー。時間は……」
電話はもう切れていた。
初にはその日、都心に行く予定などなかった。ただ、心配だから私も一緒に、と正直に明かせば、わざわざ来ることないのよ、と拒絶されるだろう。
普通に話せばいいものを、乃津麻は気に入らないことには食ってかかる。近所の人から家族まで、なにからなにまで気に入らず、つまりは常にイライラガミガミしている。
乃津麻が一方的に電話を切るのは不機嫌の一環だ。だから初は距離を置く。
しかし、父親の命を脅かす問題が起きては、こうした不愉快も我慢するしかなさそうだ。
二人を仲のいい母娘と思う人もいて、以前は弾もそうだった。
乃津麻を連れてソウルに行ったときだ。
「なんだかんだ言って、ほんとうは仲よしだよな。いいよ、意地を張らなくても。仲よきことは美しきかな、って知っているだろ」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。
そりゃオーストラリアや香港にも行ったよ。でも好きでやっているわけではない。全然違う。親孝行を強要する無言のプレッシャーを感じるから、仕方なくサービスしているだけ。
仲よくなれるかと努力した時期もあったよ。でも分かり合えないと悟ってからは、なるべく接触しないでいるのに」
と初は興奮したときの癖で声が大きくなる。
乃津麻に電話を切られ、気分を悪くしているところに玄関から人の気配がした。帰宅した弾は靴を脱ぐ間もなく、電話のやり取りを興奮気味に報告される。
「だいぶ君たちの奇妙な母娘関係をわかったつもりだった。でもなんで罪のない嘘をつく必要があるのかな? 検査結果が心配だから医者の話を聞きたいのは当然でしょ。なぜ乃津麻さんは君が来るのを嫌がるの?」
「偏屈だから、決まっているでしょ。論理的思考とか明確な理由とか、そういうのは全然ないの。なんとなく気に入らない、だから不愉快を垂れ流す。以上」
「それでお義母さんは、初が行くことを了解したの? あの人ならダメって言ってもおかしくないけれど」
「文句を言いたそうな間はあった。でも、あ、そ、って電話を切られた」
「君たちは実に面白いな」
クックと肩を揺らし沓脱に上ると、弾はサックスの入ったケースをひょいと担ぐ。
「晩飯まだだけど、なにかない? 続きは食べながら聞くから。腹減って倒れそうだよ」
とよろけて食卓へ向かった。
大動脈解離疑いで始まった倅三の入院は、予定通り二週間で終わることになった。
見舞いに行った日に咲き誇っていた桜は、もう若葉が茂っている。前回とは違った階で降りると、倅三の姿が目に入った。お仕着せのパジャマで足を組み、大型テレビの前でくつろいでいる。隣には乃津麻が、ロングスカートの下でやはり脚を組んでいた。
「お父さん、久しぶり。気分はどう? 調子はよさそうだね」
「初、よく来たな。気分はいいよ。俺はどこもどうもないし」
痩せて目が窪み、エラが張っていた。髪も心なしか薄い。それでも奇妙なことを口走る気配はなく、元の倅三だった。
「桜、散っちゃったね。満開のときはすごく綺麗だったよ。お父さん、病院でお花見はできたの?」
「談話室で缶コーヒーを飲みながらゆっくり眺めたよ。病室からも見えるし。高層ビルの病院は眺めがよくていいな。まあ座れよ」
「ここでいいのかな、待ち合わせは。どこで先生の話を聞くの? お母さん、なにか聞いている? 先生とすれ違ったら嫌だからね」
「ここでしょ。他にないわよ、話を聞く場所なんか」
「こんなところではないよ、きっと。だって、他の患者さんもいるし、テレビの音だって耳障りだし」
「病室だろ、きっと。俺のベッドのところだよ。病気の話は病室でするものだよ」
そうこうするうち純冠医師が小走りにやってきた。
「すみません、またお待たせしてしまって。早速始めましょう。こちらです。狭いけれど部屋がありますので」
倅三を先頭に「相談室」と表示のある小部屋に案内された。しっかりした足取りで医師を追った倅三は、心臓の模型とコンピューターが載った机の前に座る。初と乃津麻はその後ろに、折り畳み椅子を広げた。
まず入院の経緯と経過についての説明があった。大体はすでに乃津麻から聞かされ、知っていることだった。
「最初は大動脈解離を疑われていたのですが、膵臓にでき物があるのがわかりました。そっちのほうが心配なので、ここからは消化器の先生にお願いしますね」
入れ替わりに現れた将加医師は、三十代半ばと思われた。左利きらしく、高級時計の光る左腕を動かし、A4の紙に黒のボールペンを走らせる。
これが膵臓で、などと口に出して器用に描いたのは、明太子のような図形だ。胆嚢や十二指腸を加え、膵臓のつけ根を大きく丸で囲むと、その下に、膵頭と書いた。
「大動脈解離の診断をつけるために、まず造影剤を使ってCTを撮りました。胆嚢に腫れが見つかり、放射線科の先生からは膵臓にできものがあるのでは、と指摘されました。
そこでエコー検査です。観社さんの場合は腎臓があまりよくありません。何度も造影剤を使えませんが、もう一度だけ、造影剤CTを撮りました。
結果、十二指腸が変形していることがわかりまして、膵臓の膵頭部、ここに二十五ミリぐらいの腫瘍があるかもしれない、ということで……」
図に要点を書き加えるが、初には馴染みの薄い臓器ばかり。ちらりと目をやると、倅三も乃津麻も、ぴんとこない面持ちだ。
「膵臓の中には膵液が通る膵管があります。これは通常2ミリぐらいですが、観社さんの場合は腫瘍のせいで詰まっている。8ミリから9ミリに肥大しています。
この腫瘍は悪いものかもしれないので、M R Iと生検をお勧めします。ただ入院も長引いていますし、いったん退院して、改めていらしていただければと……」
医師の提案は、一週間後に日帰りM R I、続いて二泊三日の入院で生検を受けることだった。
倅三は「うーん」と唸って黙り込んだ。隣の乃津麻は口を硬く閉じている。
「悪いものだった場合、どうするのですか?」
初が医師の目を見た。
「手術をお勧めします。十二指腸と胆嚢、膵臓の一部または全部を取って再建する大掛かりなオペです。朝一番、8時半スタートで夕方の6時、7時までかかるでしょうね」
倅三にテレビを見ていたときの呑気さはなかった。
4月の気の早い冷房が家族の身にしみた。