第4話 本当の病気は……
文字数 1,877文字
乃津麻はこの日、主治医の話が聞きたいと、朝一番に依頼していた。何時になるかはわからないと言う。
初は担当看護師を探した。
「先生は四時まで外来で、五時から会議の予定です。来られるとしたらその間ですね。それを逃したら、今日は難しいかもしれません」
その時間まで、まだ二、三時間あった。
救急治療室のせいか、見舞客が腰掛ける椅子はない。初はベッドの足元に座り、背中が痛くなると壁に寄りかかる。ときどき壊れかけた父に話しかけ、時計を見ては絶望した。
よくわからないのは母だった。今にも倅三がどうにかなりそうな電話を寄越し、病室が暗くて惨めだと嘆く。
しかし、父の幻覚や幻聴もたいしたことはない。出来事に圧倒されているだけで、乃津麻がこの件に関する医師の見立てを全く聞いていないことが腹立たしかった。
辺りが暗くなってきた。
今日は主治医に会えないだろう。
数分おきに時計を見ていた乃津麻が顔を上げた。
「もう五時十五分だし、そろそろ帰ろう。晩ご飯も遅くなるからね。打つまでもこんな所にいられないわ」
と立ち上がったときだった。
「すみませーん、観社さん。外来が長引いちゃって。本当にごめんなさーい。いやぁ、間に合ってよかった」
弾む声に振り返る。倅の心臓の主治医で、三年前にステント術を手がけた純冠(じゅんかん)医師だ。“隣のお兄ちゃん”のような気さくな人柄を、乃津麻も倅三も気に入っている。
医師はぺこりと頭を下げると、病人の大きく張ったお腹をそっと押した。
「今回は心臓の血管がですね、ちょっとめくれたかめくれていないか、なんですよ。安静にしてもらって、C Tを撮っています。でも、あんまり変わらないですね。
明日一般病棟に移れますので、一週間ぐらい我慢してください」
「父はずっと寝たきりで、大丈夫でしょうか。筋肉が落ちてしまわないかと心配で。痩せたみたいですし……」
「そうですね、足が弱っているはずなので、リハビリを入れておきますか。軽く動いてもいいかもしれません」
「お父さん、明日一般病棟に移れるって。この部屋から出られるよ、よかったね」
初が声を張り上げゆっくり伝える。少し笑ったように見えた。
「大動脈解離は治療法がないようにインターネットに書かれていましたが、本当ですか? 治らないのでしょうか」
「治療は主に血圧のコントロールです。これ以上悪くさせないために。裂け始めた血管は元に戻りませんからね」
「食事療法ですか」
「いえ、お薬です」
「父は混乱しているようです。おかしなことを言い続けていますが、こちらは治りますか? 母が心配しています」
「環境が変わると、ご高齢の方には珍しくないですよ」
「もしかして、せん妄とかいうやつ」
「あ、よくご存知で」
「このまま痴呆に入ることはないですか。せん妄が定着してしまうとか」
「おうちに帰って元の生活に戻れば治ります」
初は少し安心した。
せん妄の知識があったのは、弾のおばあちゃんが入院したとき経験したからだ。
その日は朝の六時に電話で起こされた。
「弾からの着信記録がずらっとあったけれど、なにか用事?」
と覚えのない問い合わせだ。心配した弾が病院に出向いた。そして着信記録を見せてとせがんだ。
「あらおかしいわね、さっきまであったのに全部消えているわ」
とケラケラ笑ったという。
弾のおばあちゃんは当時九一歳で、確かに高齢だった。でも、まだ八十歳でしかない父親を「ご高齢」呼ばわりされたことが、初には気に入らない。
父は高齢ではない。今どき八十なんてまだ若い、と反論したかった。横では乃津麻が、なんとも感じていないのか、取り澄ましている。
初はさらに一つ二つ質問してから、帰りじたくを始めた。
「お父さん、先生がね、一週間ぐらいで退院できます、ってよ。四人組がまた来るかもしれないけれど、あと一週間だけ頑張って」
乃津麻もひらひらと手を振って、二人で病室を後にした。
とてつもなく消耗した。ろくに座ることもできず、妄想が入った病人の相手をした。来るか来ないかわからない医師を何時間も待った。二人ともくたくただった。
それでも乃津麻は駅に向かう道すがら、さっぱりした顔をしていた。
「あーよかった。昨日は葬式の事ばかり考えていたけれど。今日は生きて退院する話を聞けてほっとしたわ」
晴れやかな声で、あたかも夫の病が治ったかのようだ。
ところが数日後、倅三は大動脈解離ではなく、すい臓がんではないかと医師は告げるのだった。
初は担当看護師を探した。
「先生は四時まで外来で、五時から会議の予定です。来られるとしたらその間ですね。それを逃したら、今日は難しいかもしれません」
その時間まで、まだ二、三時間あった。
救急治療室のせいか、見舞客が腰掛ける椅子はない。初はベッドの足元に座り、背中が痛くなると壁に寄りかかる。ときどき壊れかけた父に話しかけ、時計を見ては絶望した。
よくわからないのは母だった。今にも倅三がどうにかなりそうな電話を寄越し、病室が暗くて惨めだと嘆く。
しかし、父の幻覚や幻聴もたいしたことはない。出来事に圧倒されているだけで、乃津麻がこの件に関する医師の見立てを全く聞いていないことが腹立たしかった。
辺りが暗くなってきた。
今日は主治医に会えないだろう。
数分おきに時計を見ていた乃津麻が顔を上げた。
「もう五時十五分だし、そろそろ帰ろう。晩ご飯も遅くなるからね。打つまでもこんな所にいられないわ」
と立ち上がったときだった。
「すみませーん、観社さん。外来が長引いちゃって。本当にごめんなさーい。いやぁ、間に合ってよかった」
弾む声に振り返る。倅の心臓の主治医で、三年前にステント術を手がけた純冠(じゅんかん)医師だ。“隣のお兄ちゃん”のような気さくな人柄を、乃津麻も倅三も気に入っている。
医師はぺこりと頭を下げると、病人の大きく張ったお腹をそっと押した。
「今回は心臓の血管がですね、ちょっとめくれたかめくれていないか、なんですよ。安静にしてもらって、C Tを撮っています。でも、あんまり変わらないですね。
明日一般病棟に移れますので、一週間ぐらい我慢してください」
「父はずっと寝たきりで、大丈夫でしょうか。筋肉が落ちてしまわないかと心配で。痩せたみたいですし……」
「そうですね、足が弱っているはずなので、リハビリを入れておきますか。軽く動いてもいいかもしれません」
「お父さん、明日一般病棟に移れるって。この部屋から出られるよ、よかったね」
初が声を張り上げゆっくり伝える。少し笑ったように見えた。
「大動脈解離は治療法がないようにインターネットに書かれていましたが、本当ですか? 治らないのでしょうか」
「治療は主に血圧のコントロールです。これ以上悪くさせないために。裂け始めた血管は元に戻りませんからね」
「食事療法ですか」
「いえ、お薬です」
「父は混乱しているようです。おかしなことを言い続けていますが、こちらは治りますか? 母が心配しています」
「環境が変わると、ご高齢の方には珍しくないですよ」
「もしかして、せん妄とかいうやつ」
「あ、よくご存知で」
「このまま痴呆に入ることはないですか。せん妄が定着してしまうとか」
「おうちに帰って元の生活に戻れば治ります」
初は少し安心した。
せん妄の知識があったのは、弾のおばあちゃんが入院したとき経験したからだ。
その日は朝の六時に電話で起こされた。
「弾からの着信記録がずらっとあったけれど、なにか用事?」
と覚えのない問い合わせだ。心配した弾が病院に出向いた。そして着信記録を見せてとせがんだ。
「あらおかしいわね、さっきまであったのに全部消えているわ」
とケラケラ笑ったという。
弾のおばあちゃんは当時九一歳で、確かに高齢だった。でも、まだ八十歳でしかない父親を「ご高齢」呼ばわりされたことが、初には気に入らない。
父は高齢ではない。今どき八十なんてまだ若い、と反論したかった。横では乃津麻が、なんとも感じていないのか、取り澄ましている。
初はさらに一つ二つ質問してから、帰りじたくを始めた。
「お父さん、先生がね、一週間ぐらいで退院できます、ってよ。四人組がまた来るかもしれないけれど、あと一週間だけ頑張って」
乃津麻もひらひらと手を振って、二人で病室を後にした。
とてつもなく消耗した。ろくに座ることもできず、妄想が入った病人の相手をした。来るか来ないかわからない医師を何時間も待った。二人ともくたくただった。
それでも乃津麻は駅に向かう道すがら、さっぱりした顔をしていた。
「あーよかった。昨日は葬式の事ばかり考えていたけれど。今日は生きて退院する話を聞けてほっとしたわ」
晴れやかな声で、あたかも夫の病が治ったかのようだ。
ところが数日後、倅三は大動脈解離ではなく、すい臓がんではないかと医師は告げるのだった。