第34話  胸騒ぎ

文字数 1,571文字

「だめだよ、お母さん、まだ帰れないよ。ここに家族がいないと困るでしょ。あともうちょっとだから。我慢して」
「ねぇ、晩御飯どこで食べる?」
「この辺でいいよ」
「この辺って? 何屋さん? うちの近所じゃないの?」
「だってこれから弾も来るし。連れて行けないでしょ」
「なんで? なにしに来るの? じゃ、あんたたち二人で食べればいいわよ、私は帰るから」
「なにしに来るの、ってお見舞いでしょ。今日は打ち合わせがあるから帰りに寄る、って」
 実の息子の無関心を埋めるように、手術当日、娘婿が見舞いに駆けつけるのだ。食事ぐらいご馳走してもいいだろう。
「ありがたいわ」とか「申し訳ないわねぇ」と感謝するべきだと初は思うが、そうした感覚は、乃津麻にはまったくない。
 初は読み尽くした週刊誌を手にした。ひとりで帰ればいいのに、とムカムカしながら活字に集中すると、乃津麻は話しかけてこなかった。
 六時半をまわったころ、桐鯛医師がひょっこり顔を見せた。こちらにと案内されたのは、ほかの家族も呼ばれたカウンセリング室だ。
 席に着くなり医師はくたびれた顔を上げた。
「手術は先ほど終了しました。十二指腸と胆管を取り、膵臓も真ん中ぐらいまで切って、膵臓と胆管、胃と空腸をつないでいます。
 手術時間は八時間十分。お伝えした時間を少し超えましたが、ほぼ予定通りです」
 そう言って、自分で満足そうにうなずく。
「それで、浸潤とかはありましたか、先生」
「大事なことをお伝えしていませんでした。
 腫瘍は以前お話した膵管内乳糖粘液性腫瘍(IPMN)です。膵臓の真ん中ぐらいで切って検査をしましたが、断面は陰性でした。つまり全部取り切れたということです。
 腫瘍のうち、がん化していない部分が体内に残っています。ですがIPMNががんになるまでには相当時間がかかります。
 観社さんのIPMNも何十年もかかってがんになったはずなので、残ったところは問題ないでしょう。あんまり取っちゃうと膵臓が十分機能を果たせませんしね。
 生検の正式な結果が出るのは一カ月後ぐらいです。
 こちらからは以上ですが、なにかご質問はありますか」
 がんの部分は取り切れ、浸潤もなかった。そう聞いて、初は胸のあたりが緩む。
「先生、想定外の事態は手術中にありましたか」
「ないです。出血量は300mlで、これはごく普通の量です。まあ無理することもないので同じぐらい輸血しておきました。
 今後については、心臓、腎臓、肺でトラブルが起こる可能性があります。起こるとしたら一週間以内ですね。
 ただ、そういうことはこの手術につきものなので、対応の準備もできています。
 臓器のつなぎ目に負担をかけないよう、腸から栄養を取るための腸ろうをお腹に作りました。中で出血してもわかるようドレインも二本、残してあります。
 一週間ぐらいで口から食事が摂れて、さらに一週間で退院が見えるでしょう。今ご本人をきれいにしていますので、もうすぐお呼びできますよ」
 ドレインは膿などを体の外に出す排液管だ、と初は、盲腸の経験からぴんときた。
 乃津麻を振り返ると、しんみりとうつむいている。
「お母さんからは聞きたいこと、ないの?」
「いえ、別に」
 帰ろう、と騒いでいたときとは別人の澄ました様子である。
 二人は医師に礼を言い、部屋を出た。
 手術は成功だった。
 乃津麻もそう理解したはずだが、特にうれしそうでもない。夫の苦難を思い出したのか、元の席で静かに座っていた。
 医師の話では倅三はすぐに手術室から出てくるはずだった。
 しかしいつまで経っても看護師は呼びに来ない。待合室の顔ぶれは刻々と変わっている。読書女子も、品のよい大家族も、もういなかった。
 なぜ、倅三は帰ってこないのか?
 手術後になにかあったのではないか。

 そんなはずはないと思いながら、初の胸騒ぎは深まった。
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