第2話  大動脈が裂けた?

文字数 2,013文字

 お父さんが入院した、と連絡があったのは、気が狂ったという知らせの三日前だった。大変だ大変だと騒ぐばかりで要領を得ない乃津麻を、初はなんとか落ち着かせた。
「起き抜けに背中が痛いって言いだしたのよ。かかりつけの地格野医院に行かせたら、血圧が220もあったって。それで紹介状を持たされて、『明日は土曜だし、早いほうがいいらしいから診てもらう』って自分で運転して。ちょっと大学病院に寄ったつもりが大動脈解離だろうって」
 そのまま入院させられ、絶対安静で救急治療室に入っているらしい。
 今年喜寿を迎える乃津麻は、遊び半分ながら踊りを習っていて、着物での外出も気軽だ。普段も服は黒でまとめ、お洒落を意識している。
 髪だってアップか巻き髪のダウンスタイルで、その年齢には見えない。しかし1から10まで話さないと気が済まず、齢は隠せなかった。
 そのくせ肝心なところははっきりしない頭のゆるさである。これだけ聞くのに話は行きつ戻りつ、ちょっとした時間と辛抱が必要だった。
 ついに思いの丈を語り尽くしたのか、乃津麻は静かになった。ながらパソコンで大動脈解離について調べていた初の心はざわついた。
「この病気やばいよ、大丈夫なの? 医者はなんだって? 聞いてないの、お母さん?」
「検査して様子を見るって言われたわよ。最低でも二週間入院です、って」
 元気に退院できるなら二週間の入院ぐらいなんでもないだろう。しかしざっと調べた限りでも、そう簡単ではなさそうだ。
 大動脈解離は心臓に栄養を送っている大動脈の壁が裂ける病気で、致死率が極めて高い。心臓に近い所で起こった場合は緊急手術をしなければ助からない。一命を取り留めてもこれといった治療法はない……。
 どのサイトも似たような説明である。インターネットの情報を丸ごと信じているわけではない初でも、父はこれに近い状態なのかと思うと、いても立ってもいられなかった。
 倅三にたまたま狭心症が見つかったのは三年前のこと。大学病院の医者によれば、心臓につながる三本の冠動脈すべてが詰まりかけていて、いつ発作が起きてもおかしくないらしかった。
 そのうちの一本は救えず残りの二本を広げる手術を受けた。手術といっても局所麻酔で太ももの付け根からステントと呼ばれるメッシュの管を狭くなった部分に送り、血管を拡げるだけだ。局所麻酔だし、入院も大動脈一本につき二泊三日、二本なので都合四泊六日で済んだ。
 検査では、腎臓も少しよくないとか、糖尿の気もあるなど、本人にも思いもよらないことを知らされた。倅三に病気らしい病気がないことを自慢にしていた乃津麻はなぜか驚かなかった。
「だいたいお父さんはね、水分をちっとも取らないからこんなことになるのよ。お茶もお水も味噌汁も全然飲まないから」
 と注意しても聞かない本人にではなく、初に文句をぶつけた。
 危うい状態にあった割には体への負担が軽い手術で済んだ。血の巡りが改善されたせいか、倅三は以前より活動的になった。しかし多少の不具合で生活習慣を変える男ではない。
 三年経った今回、大動脈解離なる新たな病名を聞いた初は、今度こそだめかもしれないと、ぼんやり頭をよぎる。
「お母さん、大体わかったから、なにかあったら連絡して。毎日見舞いに行くでしょ? 医者の話もよく聞いておいてね」
 そんな話をした数日後に、おかしなことになっていると泣きつかれるとは。怖い病気だと知っていながらなんの覚悟もなかった脇の甘さを、病院に向かう電車でしみじみ感じる。
 一駅一駅がいつもより長かった。最寄り駅に着けば病院までの桜並木は満開の一歩手前、最も美しい瞬間だ。
 急ぎ足でロビーに入ると、長椅子から不安そうな面持ちで乃津麻が立ち上がった。今日も丈の長いしゃれた黒のワンピースだ。
「言っておくけれど、お父さんいつもと違うから。驚かないでね。こんな感じに目が据わって、ガラが悪くてびっくりよ。昨日もね……」
 睨みつけるように、倅三の様子を再現してみせる。
「もうわかったから。ちょっと落ち着いて」
 年齢のせいか、数年前か前から乃津麻は話がくどく、言ったばかりの内容を繰り返す。特に興奮するとそうなった。
 エレベーターを下りると乃津麻は、「談話室」と書かれた眺めのいい部屋に初を押し込んだ。そして誰もいない部屋のテーブルに、大ぶりな革のバッグを乱暴に置いた。
「あのね、薄暗い部屋にベッドがだーっと並んでいるのよ。お父さんがいる場所は昼だか夜だかわからないの。それも嫌みたいで、『ケータイと時計を持ってこい』って言うから」
 とバッグから倅三の電話と、初が贈った愛用の腕時計を取り出す。
「ここであれこれ言ってもしょうがないよ。とにかく会いに行こう。お父さん、待っているよ、きっと」
「……それもそうね」
 乃津麻は案外素直にうなずき、二人は廊下に向かった。
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