第3話  救急治療室

文字数 2,210文字

 主に救急車で運ばれた患者のための救急治療室は、見舞客が簡単に入れる場所ではないようだ。
受付で倅三の担当看護師の名を伝え、初は乃津麻と並んで待ち合いの簡素なビニールソファに腰を下ろす。
 しばらくしても名前が呼ばれる気配はなかった。乃津麻は手持ち無沙汰なときの癖で、キーホルダーの飾りをくるくると指でもてあそんでいる。
「まだかしらね。いつまで待たせる気かしら。忘れられているのよ、きっと。こんな硬い椅子じゃ腰が痛くなるわ」
 とイライラして、通りがかりの看護師を呼び止めた。
「さっきから三十分ぐらい待っているのよ。観社倅三の家族ですけれど、まだ入れてもらえないのかしら? 今、先生の回診中なの?」
 苦情に慣れているのか看護師も顔色一つ変えない。少しお待ちください、と事務的に応じるだけだ。
 代わって担当看護師が現れた。しかし、「お待たせして済みませんすぐにお呼びしますので」などと形だけ頭を下げるなり、救急治療室に消えた。
 やっと声がかかったのは、うんざりを通り越したころ。
 治療室には患者の体調を管理するさまざまな機械の音が充満していた。薄暗くて気味が悪い、と聞かされた部屋には、大きな窓から光がたっぷり入差し込んでいる。
 十台ほど並んだベッドはカーテンで仕切られ患者どうしは見えない。しかしナースステーションからは全員が見渡せ、すぐに駆けつけられる仕組みだ。
 看護師のあとについて歩きながら、並んだベッドを目で追う。瞼を閉じ口を開けたまま横たわる老人。動かない女性を見守る不安げな中年男性。眠っているのか意識がないのかわからない患者が、それぞれの仕切りにいる。プライバシーはゼロだ。
 一番奥のベッドには、年配の男性があぐらで座っていた。それが倅三だった。むくんで面変わりした上、怒ったような目つきで、初や乃津麻に気づいているはずだが反応はない。
「ほら初、あんたを見てもわからないでしょ。昨日からこんな感じよ。嫌になっちゃうわね。退院したって面倒見切れないわ」
 と乃津麻が目くばせする。
「お父さん、初だよ」
 努めていつもの調子で話しかける。普段の父なら機嫌よく、「心配させちゃったなぁ」とか、「心配することないよ」と明るく返すはずだがむすっとしている。
「わかってるよ」
 と面倒臭そうに言い放つと黙ってしまった。
 かちゃかちゃと金属音がするのは、倅三がベッドの柵を外して降りようとしているからだ。しかし点滴や血圧計、心電図といったいくつもの機械に繋がれ、思うように動けない。
「いやだ、なんでお父さん裸なの。みっともないわね。ちょっとすみません。どなたかお願いできませんか」
 案内を終えるとどこかに消えた看護師を探す代わりに、通りがかった別の人に乃津麻が声をかけた。
「お母さん、お父さんは多分ベッドから降りようとした。でも繋がっているチューブが邪魔だと気づいた。それで外そうとしてパジャマを脱いだけれど、その辺でわけがわからなくなった。そんな感じだと思うよ」
 そう解説するうちに担当看護師がどこからか戻った。
「あら観社さん、脱いじゃったの。暑かったかな」
 手早くパジャマを着せ始め、それを合図に父が声を絞り出した。
「おい、ジュースないか」
「ジュースはだめよ、きっと。 お父さん、お水は? 水でいいでしょ、ね。あの、お水お願いできませんか、看護師さん」
 先ほどとは打って変わって下手に出ている。救急治療室の患者は容体が急変しやすく、水でさえ勝手に飲ませてはいけない決まりだ。
 倅三も例外ではない証拠に、看護師が用意したマグカップから水を一口飲み下すと、とたんに上半身をピクつかせる。そして妻と娘が見守る中、苦みばしった抹茶色の液体を口から戻した。
「外で待っていて下さい」
 緊張を帯びた声で看護師に命じられ、初は乃津麻と、数分前にやっと抜け出した待合ソファに戻った。
 そこでは初老の夫婦らしき二人が、救急治療室から出て来た若い男を迎えていた。ジーンズにTシャツ姿の青年が看護師から大きなビニール袋を受け取る。中からジャンパーを引っ張り出し、袖に通している。
「メガネはあるの?」
 母親らしき女性の問いかけに、うん、とうなずく青年。身じたくが整うと、三人は看護師に何度も頭を下げて出て行った。歩いてここを出られる人はいいなと、初は父を案じる。
「お父さんね、看護師に声をかけたのに無視されたんだって。テイッシュを頼んだら投げてよこしたとかね。扱いが雑で腹を立てているの」
 綺麗にカールした髪の間から、乃津麻は疲れた顔をのぞかせていた。
 父の憤慨はもっともだ。しかし救急治療室の若いスタッフは、男も女もひっきりなしに動き回っている。通りがかりに声をかけられても耳に届かないかもしれない。聞こえの悪い父が返事を聞き違えることもあるだろう。
 そもそも、すぐ帰るつもりで気軽に家を出たのに、そのまま入院となった。血圧が安定しないうちは体も自由に動かせない。絶対安静で、戸惑っている父がかわいそうになる。
 着替えが落ち着くと呼び戻された。横になった倅三はやはり怒っていた。
「四人組の奴らが夜中に忍び込んで俺に危害を与えようとする。俺はこのまま死んでもいいが、この事態を社会に告発しないと再発するからな。いいか、よく覚えておけ」
 そう言って、宙をにらみ続けた。

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