第36話  不安

文字数 1,420文字

「胃が、上から、下から、押さえつけ、られるように、痛い」
 とぎれとぎれに絞り出す倅三に、初は思わず触れた。血栓予防の圧着ストッキングに覆われた足が温かい。
 父さんは生きている!
 話すことはもうなかった。たたずむ弾のかたわらで、乃津麻は病人の手をなでていた。言葉もなく、三人でただ、じっと倅三を見つめる。
 看護師が忙しく行き来していた。
「そろそろ行こうか」
「そうだね。お父さん、これから手術の成功を祝って、三人でビールを飲みに行くからね。お父さんのおごりだよ」
 初が明るく声をかける。倅三は、そうしてこい、とゆっくりうなずいた。
「桐鯛先生、ありがとうございました」
 集中治療室内のナースステーションで、桐鯛医師はコンピューターを見つめていた。
「お帰りですか。観社さんは痛がっていたので、麻酔からゆっくり目覚めるようにしました。それでいろいろやっていたら時間が経っちゃって……」
 ピクピクと小さく痙攣する医師の右瞼が過酷な手術を物語る。倅三も命がけだが医師も命を削っているのだ。
「先生、私たち今日、ビジターカードが一番でした。母と私で001と002番」
「ラッキーナンバーですね」
 朝からだれかに自慢したかったことが、主治医に通じた。

 ロビーの時計は八時前。外はすっかり暗い。初は実に十二時間以上病院にいたことになる。
 駅に向かいながら、明るすぎる街灯に疲れを感じる。東京はなぜこんなに明るいのだろう。だから星が見えないのだ。
「さて、駅だけど」
「どこかこの辺でお店を見つけてきてよ、弾。そういうの得意でしょ、安くておいしい店を探すの」
 あれだけ騒いでいたのに乃津麻に帰るそぶりはない。弾が案内する店に、おとなしくついてくる。
 地ビールが売りの居酒屋らしかった。メニューにずらりと並ぶ地ビールを吟味して、乃津麻は顔を上げた。
「私は黒ビールにするわ。ちょうど黒ビールが飲みたかったの。暑いわね、喉が乾いちゃった。病院は乾燥していたから」
 上気した顔で暑がる乃津麻は、いつになくほがらかだ。
 料理が運ばれると弾がグラスを上げた。
「それでは、お義父さんの手術の成功と、初の五十歳の誕生日を祝って」
「そうだったわ、今日は初の誕生日ね」
 軽く流して乃津麻は箸をとる。
「すっかり忘れていた。それどころじゃなかったからなぁ」
 大台に乗った現実より、父親の手術が成功した感慨が深い。若いころ、五十歳なんて大オバサン、と思っていたのに、その歳になると認めたくないものだ。
 聞き上手の弾にかかれば気難し屋の乃津麻もイチコロだった。上機嫌によく喋り、珍しくビールのおかわりをした。
 ただ初に対しては最後まで、誕生日おめでとうとか、今日はお疲れ様という労いはなかった。それが乃津麻という人だ。
 自分の価値を認めない母をどうこうするより、初には大きな心配があった。
 浸潤がないのはほんとうだろうか?
 完全にがんは取り切れたのか?
 安心していいのか?
 正式な検査結果が出るまで油断はできない。
 すべてがうまく行き過ぎだ。
 落とし穴があるのではないか……。

 初は実家でいつもの朝を迎えた。
 急変したとの連絡はなかった。
 山を一つ越えたのか?
 安堵するには早いはずだ。
 病院に急ぐと、倅三は枕を起こしベッドに横たわっていた。顔の腫れは少しマシなようだ。
「お父さん、昨日は大変だったね。気分はどう?」
 まだ胃が痛いのだろうか。
 慰めの言葉を探しながら、初は倅三の顔をのぞき込んだ。

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