第12話  確執

文字数 2,562文字


 地格野医師は続けた。
「一つ後悔しているのは手術のことです。父は年齢もあって手術をしませんでした。しかし同世代の膵がんの男性が、手術を受けて回復し、ピンピンしている。そういう患者さんを見ると、受けさせておけばよかったと悔やまれます。
 ですから八十歳ぐらいで手術可能な段階なら、十分耐えられる気がしますが」
 在宅介護は甘いものではない、と希望を砕かれた。それでも手術については望みが繋がり、初は倅三と診察室をあとにした。
「あの先生があんなに喋ってくれるとは思わなかったな。いつもはぶっきらぼうだけれど」
 最初は緊張していた倅三も、思いがけない経験談や手術についての肯定的な意見に、今ではどこか興奮気味だ。
「話が聞けてよかったね、お父さん。いろいろ参考になったし」
「そうだな、よかったな、行って」
 こうして家の近所を歩くのも初には久しぶりだった。名のある高級住宅地ではない。ただこのあたりは、区画整理され道路が碁盤の目のように走っている。静かな住宅街だ。
 そこそこ立派な家にはどこもカーポートがあり、見栄えのいい車が止まっていた。平日のせいか車の通行はほとんどなかった。
 災害時の避難所を兼ねる公園は、木々の若葉がきらきらしている。おしゃべりする母親。そのかたわらで、子供たちが声を挙げて遊んでいた。
「案外いい所だね、ここは」
「そうさ、いい所だよ。俺なんかスポーツセンタにー行くときは、ここ通る。帰りはもう一本向こうを抜けてね。新しい家なんか見ながらのんびり歩くと飽きないよ」
 初が独立したあとに両親が越してきた土地だった。近所を散歩し、季節を感じ、スポーツ施設でリフレッシュする。
 長年働いた倅三がゆっくりしようとした矢先のことだ。こんなささやかな喜びも病気は奪っていくのか……。

「ただいま」
 初はわざと大きな声を出した。リビングのソファから乃津麻がしかめっ面を上げる。
「地格野先生のところ、行ったのでしょ」
「うん」
「なにしに?」
「ほら、お父さんが手術しないって言うから。弱ったら在宅看護とかどうしたらいいのかなって。近くの訪問看護サービスのこととか、アドバイスをもらいにね」
「なんであの先生のところに行くのよ。あそこはだめなの。それに、そんなことする必要ないでしょ。自宅で看護なんて冗談じゃないわ、こっちが殺されるわ!」
 怒気を含んだ声で、乃津麻はすでに感情を抑えられない。乃津麻も在宅看護のつもりだと思っていた初は、慌てた。
「家で看取らないの? じゃどうするの」
「一人でトイレに行けなくなったら病院に入れるわよ。三カ月ごとに転院させればずっといられるの。みんなそうしているわよ、あったり前でしょ!」
 声を張る乃津麻の姿には見覚えがあった。初が子供のころもそうだった。大人になってからも変わらなかった。この人は一生、喚き散らしているのだ。
「お父さんとそのこと、話し合った? お父さんもそれでいいって言っているの? お父さんは、一言も言ってなかったよ」
「あんたはね、どこまでうちのことに首を突っ込んでくるの? 余計なことしないでよね。ちゃんと考えているのだから!」
 話し合いが持たれているとは、到底思えなかった。三カ月ごとに病院をたらい回しにする? そんなことができるのだろうか? それでいいと思っているのか。
 乃津麻の言う“みんな”は数人の知り合いを意味した。乃津麻の世界はそのサイズだ。正気とは思えなかった。ちゃんと考えているとは、どうしても考えられなかった。
 あなたがしっかりしていないから私がやっているの! 
 と叫び返したかった。
 夫の不安を汲み取る妻ならいいだろう。一緒に考えようと提案する母なら、初はなにも口出ししない。
 お父さんが死ぬかも、とオロオロと電話をよこした。すぐ来て、と有無をいわせず呼びつけた。さんざん心配させておきながら、かかりつけ医に意見を求めたぐらいで「余計なこと」と罵倒するなんてわけがわからなかった。
 愚痴は聞いてほしい。頼ったときは応えてほしい。でも心配して手を出すのはやめてもらいたい。そんな身勝手は到底許せない。
 実はもしかしたら、と初には期待するところもあった。
「地格野先生はなんて言っていた? お父さんの一大事だから、家族で力を合わせて支えようね」
 と、母がそんな風に言いだすかもしれない。そうであってほしい。それなのに、現実の乃津麻はこの体たらくだ。
 音人からはまだ連絡がない。お父さんががんかもしれない、と乃津麻が留守電に入れたというのに。
 嫁の実家の敷地で暮らしているなら、婿養子に入ったも同然だろう。
 相変わらずの家族バラバラぶりが初には哀しかった。大黒柱の大病をきっかけに家族が絆を取り戻す。そうした美談はうちには無縁なのだ。
 言いたいことをすべて飲み込み、初は立っていた。着替えた倅三が洗面所に入るのが見えた。初は玄関の上がり框に座って待った。
 とそのとき、背後にリビングのドアが乱暴に開く音がした。
「ちょっとそこ、どきなさいよ!」
 不意に母の怒声を浴びる。玄関に落とした電話を急いで拾おうと腰を屈める。
「靴を履くのよ、どいてよ、もう!!
 ヒステリックに乃津麻に押しのけられた。着飾った乃津麻が玄関に陣取る。ショートブーツのファスナーを、音を立てて上げると、ドアを開けた。
 体制を立て直し、初は顔を上げる。門扉に手をかける乃津麻が、ゆっくりと閉まるドアの隙間から見えた。
「バカヤローーーーー!!!!
 全身全霊で叫んだ。乃津麻はビクッとしたようだが、すぐに姿を消した。
 倅三が洗面所から飛びだしてきた。
「どうしたの」
「お母さんが、地格野先生のところに行ったの、余計なことだって……」
 閉まった玄関ドアを見つめたまま、初はしゃくりあげる。
「専門家の話を聞きに行くのが、なにが余計なことだ。ほら、もう泣かないで、気を落ち着けて」
 倅三は初の背後から両肩を優しくぽんぽんと叩く。
「俺のせいだよ、俺が全部悪い。さあ気を落ち着けて」
「お父さんが大変なときに……心配させちゃって……」
 玄関にうずくまる初の目からは、とめどなく涙が溢れた。

      
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み