第29話  医師の名は。

文字数 1,778文字

 病院まではバスと電車を乗り継ぎ、一時間足らずで着く。それなのに乃津麻が早く早くと急かして、予約時間の二時間前に二人は家から追い出された。
 バス停はごく近所で、バスはしょっちゅうやって来る。
「お父さん、忘れ物はない? 今ならまだ取りに帰れるよ。ケータイは持っているよね? なにかあったら連絡できるように」
「ケータイは出がけに持ったはずだよ。忘れ物はないと思うけれど……」
「今日は雨じゃなくてよかった。ザーザー降りだと濡れたりして嫌だよね。お父さんは晴れ男?」
「そうだな」
 バスでも電車でも倅三は目を落とし、静かに座っている。話しかければ短く答えるが、会話は弾まなかった。
 無事病院に着いてみると、時間外受付はごった返していた。どうにか入院書類を引き取り病棟のナースステーションにたどり着けば、こちらはだれもいない。
 やっと戻った看護師に、受付からの書類ケースを渡す。掛けて待つように、との指示である。
 ラウンジのソファでテレビを眺める倅三に、初も加わる。モンサンミッシェルを紹介する旅番組を丸々一本見たが迎えは来ない。気長な倅三もさすがに身を起こした。
「遅いな」
「ちょっと聞いてくる。ここで待っていて」
 ナースステーションに戻ると、またもやだれも見当たらず。先ほど渡した書類ケースもテーブルに放置されたままだ。
 小一時間経ってようやく案内されたのは四人部屋だった。個室は寂しい、と嫌う倅三の希望通りだ。ベッドは窓際で、高層階ゆえに東京の景色が遠くまで見渡せる。
 カーテン越しに隣から、若くはなさそうな男の声がはっきり聞こえた。
「先生、食事のカロリー増やしてくださいよ。今のままじゃひもじくてたまらない。食べることしか楽しみがないですから、お願いします」
 父も早くこんなふうに回復してくれたらいいのにと、初はうらやましくなる。
 案内までは時間がかかったが、看護師が入院に必要な品物を教えに来たり、パジャマのリース契約書にサインを求められたり、バタバタしだした。
 そこに、長身の青年が白衣で現れた。
「今駄(いまだ)といいます、輸血の説明に参りました」
 名札には研修医と書いてある。
パジャマに着替えたばかりの倅三は、ベッドの縁に座っていた。そわそわと落ち着かない様子だ。
「父は耳が遠いので、ゆっくり大きな声でお願いできますか」
「わかりました」
 話は、手術中に輸血の可能性があること、倅三は貧血なので自己血をあらかじめ取っておけないこと、輸血のリスクなどだ。
 青年医師は立ったまま、倅三を見下ろしていた。洗面台のパイプ椅子に初は気づいた。急いで運び、医師に勧める。
 すると今駄医師は、「大丈夫です」と遠慮なのか、早く終わらせたいのか、話し続ける。そろそろ終わりかと手にした書類をのぞけば、まだ半分も済んでいない。
「先生、父と同じ目の高さでお話いただけませんか。なんだか萎縮しているようで」
「あぁそういうことですか」
 椅子を寄せ、座ったとたん、話がゆったりした。
 医師が腰を据えたことで倅三も安心したようだ。
「先生、八十歳にもなってこんな大きな手術を受ける人はいますか? 家族の勧めもあって決断しましたが、ずっと心配でしてね」
「年齢を重ねると個人差が大きくなりますからね。八十歳でも観社さんのようにご自分の足で普通に歩ける方がいます。一方で、六十歳でも食事をしたことを忘れてしまう方もいらっしゃいます。人それぞれですよ」
「膵臓を半分取るなんてことをして大丈夫ですかね。昔の人間のせいか、膵臓が半分しかないなら生きられないだろう、と思ちゃうんですが」
 ざっくばらんに医者に話しかける光景はこれまでなかった。相手が駆け出しの若者だから心やすいのか。
「手術は確立された術式です。冒険じゃないですよ。どこをどういう順番で切ると決まっていますから。普通に行えば問題ありません」
「どなたが手術されますか? だれだろうねって父も気になっているみたいです。はっきり聞かされていないものですから」
 桐鯛医師は説明だけなのか、執刀医なのか? チームで手術にあたると聞いたが責任者ぐらい決まっているだろう。
「城市先生か、桐鯛先生か、菜園(なその)先生です。心配ありませんよ、僕みたいなのと違ってみなさんベテランですから」
 今駄医師は余計なことまで口にして、ふふふふと軽薄に笑い声を立てた。
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