第42話  食べられない

文字数 1,696文字

 倅三が退院した夜、初は実家に電話をかけていた。
「初か、やっと家に帰れたよ。お母さんが料理の腕を上げていてうまいよ。ご飯がよく入る」
 目を細め、箸を忙しく使う様子がありありと伝わる。
「二週間ぶりだね、家は。もう電話しなくても大丈夫だね。あとはゆっくり、ぶらぶらしていたらいいよ」
 父につられ、初もウキウキと応じたのだが、数日後、実家に顔を出せば様子が違った。
 浮かない顔の乃津麻が、ダイニングチェアからぬっと顔を上げた。よからぬことがあったのだ。
「大変なのよ、お父さんが。
 退院して一日、二日は鳥手羽の揚げたのをぺろっと平らげたの。でもそのあとは全然。ご飯が食べられないの。
 入院前は毎朝、ヨーグルト、野菜ジュース、食パン、果物だったのに、今はちっとも。パン一枚食べさせるのがやっとだわ。
 今日なんか野菜ジュースも流しに捨ててあったし。水だってろくに飲まないんだから」
「お母さん、そんなにヤイヤイ言ったら逆効果でしょ。無理にパン一枚とかではなくて、半分でもいいから、食べ切った、って実感を持たせたほうがいいよ」
 乃津麻は聞いているのかいないのか、肩を落としてため息をつく。
「あれじゃ太れないわ。退院した日は鳥手羽を四本食べたのよ。昨日の肉豆腐だって、豆腐は残したけれど肉だけきれいにさらったし。今日もお肉を買ってあるけれど」
 いつもの調子で、言いたいことを好きなだけ言うつもりらしい。
 夕飯のしたくをしようと、初は台所に立った。
 マグロとアボカドをごま油と醤油で和え、ナスやキノコを天ぷらにする。トマトが好きな倅三にはフルーツトマトを多めに切り、レタスに添えた。乃津麻には、刺身用の有頭エビだ。
 散歩中の倅三に、駅を出たところでばったり会っていた。晩に食べたいものを聞くと、麺類がご無沙汰だから焼きそばかラーメンがいい、とのことだった。
「嘘よ、お父さんはお肉が食べたいって言っていた。焼きそばなんて話はしていなかった」
 乃津麻は目を釣り上げる。
 初は焼きそばの材料も調達したが、倅三には肉を焼くことで母と合意した。
「初、そこにある牛肉をさっと炒めて醤油を軽く回しかけてくれない? 焼き過ぎはダメよ、硬くなるとお父さんは食べないから」
 鳥手羽の素揚げは別にして、倅三が肉といえば牛肉だ。赤身の間に脂身の入った、柔らかくジューシーな肉質が好みと初もわかっている。
 散歩から戻った倅三は、手を洗いダイニングテーブルに着いた。初は乃津麻の指示通りに肉を焼き、皿に盛ってテーブルに出す。
「いい匂いだなぁ」
 頬を緩めた倅三はしかし、肉を一切れ口に入れると、静かに箸を置いた。
「どうしたの、お父さん」
「肉がパサパサだよ」
 黒毛和牛だと乃津麻が自慢していた切り落としは、初が食べても確かに口の中でとろけない。消化を気にして脂が少なめのパックを選んだようだが、サシが控えめで赤身に近いものだった。
「そうなの? パサパサ? 昨日と同じ肉なのに」
 乃津麻は、昨日の肉豆腐は喜んで食べたではないか、と言いたげだ。そして渋い顔で肉片を箸に引っかけ、口に運んだ。
「味付けが悪いのよ。味が全然ついていないでしょ。甘辛くして、もっとソースを絡めないと」
 もう一度、初も箸を伸ばしてみる。確かに味は頼りないかもしれない。しかしおいしく感じない原因は、赤身がちな肉質が原因だろう。
「味付けのせいかもしれないけれど、パサパサしているって言うお父さんの意味もわかるなぁ」
 話を軟着陸させようとしたそのときだった。
「ソースが食べたいわけじゃない。肉が食べたいのだ。おい、漬物かなにか冷蔵庫にないか」
 不機嫌な声で割って入った倅三に、初は冷蔵庫にあった弾の韓国みやげのキムチを勧めた。
 会話のない暗い食卓だった。ご飯を無言で掻き込む倅三。向かいに座る初は疲れがまだ抜けず、食欲がなかった。
 気に入るとしつこく同じ料理を作る乃津麻は、最近、トマトベースの具沢山スープにはまっていた。
 倅三の入院中からさんざん食べさせられ、飽き飽きしているそのスープに、初は茶碗のご飯を沈ませる。ご飯粒がほろほろとぐれたところを見計らい、一気に喉に通した。
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