第49話  暴れる

文字数 1,891文字

 焦点の定まらない乃津麻の説明によると、入院の顛末はこうだ。
 診察したのは木香薇医師だった。二日前、食欲の出ない倅三は予約なしで受診した。そのとき、点滴の終わりがけに「念のため、あさって来ていただけませんか?」と顔をのぞいた医師である。
 乃津麻は木香薇医師に、まず食ってかかったらしい。
「どうしてこんなことになったのですか? っていろいろとネチネチ言ったの。だっておかしいでしょ。退院したのにどんどん具合が悪くなるのだもの。馬鹿にするな、って」
 本人が「ネチネチ」と表現するほどだ。愚痴や文句をくどくどと、嫌な感じで繰り返したに違いない。
 その証拠に、待合に戻ると、連絡を受けたらしい桐鯛医師が小走りにやってきた。木香薇医師の上司で主治医でもある桐鯛氏に、乃津麻はさらに不満を爆発させた。
「退院のとき、先生はこうおっしゃいましたよね。
『なんでも食べられます。なにをしてもいいです。ただ腸ろうだけは抜けないように、十分気をつけて清潔にしてください』って。
 こんなことになる可能性に一切触れませんでした。
 私は言われたことだけは、ほんとうに、ほんとうに、気をつけましたよ。シャワーの前には消毒して、ばい菌が入らないように絆創膏を貼って。出てきたら絆創膏を剥がしてまた消毒して。
 それだけ気をつけて一生懸命やりました。それなのに、どんどん食べられなくなって、どんどん痩せました。
 挙句の果てに再入院って、どういうことですか? よくあることですか? なんで言ってくれなかったのですか? どれぐらい入院すれば治るのですか?」
 とまた「ネチネチ」なじったと言うのだ。
 倅三は退院後一週間で体重が一キロ以上減り、血圧も上が一〇〇を切っていた。詰め寄る乃津麻に桐鯛医師は、こう釈明するのが精一杯だった。
「こういった不調はよく見られます。どれくらいで食欲が回復するかは、やってみないとわかりません」
 普段は乃津麻の言動に違和感だらけの初も、この話だけは、母の肩を持つ気になる。
 限られた知識の中で、乃津麻は医師の言葉をお守りに、忠実に実行したのだ。それなのに倅三は、回復ではなく衰弱した。乃津麻にすれば裏切りだろう。どれだけ言葉をぶつけても、気が済みそうになかった。
 桐鯛医師と別れ、検査から戻ると、乃津麻は指示通り診察室の前で待った。横にはうなだれ、元気のない倅三が座っている。患者と家族で待合は混み合っていた。やがて一人減り、二人減り、そして誰もいなくなった。
 苛立ちと格闘しつつ待っていた乃津麻は、ついに腰を上げた。
「すみませんけれど、あとどれくらいかかりますか? 観社倅三です」
「いま確認いたします」
 外来がとっくに終わっている午後三時。まだ順番を待つ患者がいたことに受付も慌て、すぐにデータを調べた。
「空いている病室を探しているところです。もうしばらくお待ちください」
 白々しい言葉を返すと、まもなく案内の看護師が現れた。
 連れて行かれたのは、手術後に滞在していたのと同タイプの個室である。差額ベッド代は一日一万円。希望の大部屋がふさがっていることも、しまり屋の乃津麻には面白くないことである。
「ねぇ、看護師さん、個室しかないのかしら? 一日一万円の負担なら、三十日で三十万円よね。そんなお金、うちにはないわよ」
「すみません。なるべく早く大部屋に移れるようにしますので」
 若い看護師は頭を下げたまま、乃津麻の目を見ない。
 どこから三十日という数字が出たのか、謎だった。看護師への対応も、嫌味たっぷりだったはずだ。
 それでもまだ乃津麻は腹の虫が収まらなかったらしい。やって来た若い医師に難癖をつけた。その挙句、「そもそも手術するつもりなんてなかったんだから」と口を滑らせた。
 言ってもしょうがないことを、重ねて口走ったのだろう。追い詰められた医師はムキになった。
「お言葉ですが、自分は傷口が化膿していないか見たり、消毒したりする担当です。そういった類のお世話をしているだけで、治療とはなんの関係もありません。
 大がかりで難しい手術でしたし、観社さんは歳も歳だから、ちゃんと回復するかわかりませんよ。
 よくなってもらいたいと思ってお世話していたのに、その言い方はなんですか?」
 乃津麻は黙ってバッグから、ペンと手帳を取り出す。
「あなた、お名前は?」
「今駄です」
「お歳は?」
「二十五歳です」
 ここまで場面を再現した乃津麻は楽しげに言った。
「『訴えるんですか?』って今駄は焦っていたけれど、黙っていたわ」
 ふふふっ、と電話の向こうで笑いを漏らす母に、なんてことをしてくれたのだと、初はめまいがした。
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