第39話 憂鬱
文字数 1,704文字
忙しそうにしていた担当看護師は手を止めると、事務的に言葉を発した。
「管を外すのはまだ無理です。観社さんはせん妄がありますから。ドレインを抜いてしまったり、なにかと問題が起きるんですよ。おひとりでトイレに行って倒れても困りますし」
筋力を落とさないよう、倅三は医師から散歩を指示されている。管が外せないなら、看護師が付き添えば済む。
歩かなかったら傷が内臓に癒着するだろう。いいことはなにも起きない。
着替えの補充と看護師から体調を聞き取ることは済んでいた。倅三を病室の外に連れ出せないなら、初にはもうすることがない。
身じたくを整え、腰を浮かせたとたん、倅三が夢見るように言った。
「おい、庭のブーゲンビリアの葉は出たか。いい時期だろう」
「ブーゲンビリアねぇ。どうだったかな。見ていないからわからない」
庭の花に目を止める余裕などどこにあるのか。引き止められていることを感じた初は腰を下ろし、しばらく倅三の相手をすることになった。
実家に泊まったその夜、未明に目を覚ました初は、眠りに戻れる気がしなかった。手術の傷口が癒着しているかもしれない。歩かないことで回復が遅れたら……。
ついに布団をはねのけスマホを手にとる。そうだ。歩行訓練ができないなら、寝たまま血の巡りをよくすればいいのだ。
家電量販店のサイトで、ローラー式のマッサージ機を見つける。脚に巻いて空気圧を加える機種もよさそうだ。
結局、初自身が前から気になっていた加圧タイプを選んだ。明日、見舞いへ行く途中、店舗で受け取る。そう決めたら、眠れる気になった。
翌日、初は久しぶりに倅三の晴れやかな顔を見た。
「このあと、車椅子に乗る練習に行くらしいよ。やっとだよ」
「よかった。ねぇ、圧着ストッキングを履いていないけど、どうしたの?」
「あれはハサミで切られちゃった。もったいなかったなぁ」
「お父さん、大丈夫。新兵器を買ったから」
手に入れたばかりのマッサージ機を、うやうやしく箱から出す。倅三のふくらはぎや太ももに巻いて、スイッチを入れた。空気が入ると脚が気持ちよく締め付けられるはずだ。
「ほー、いいな」
慣れない感覚に倅三は目をパチパチさせている。漂うラベンダーの香りは、病室を癒しの空間にしようと、ついでに買ったディフューザーからだ。
ベッドで素敵な香りに包まれ、マッサージ機に身を委ねる。ときどき歩く練習もできれば、最高のリハビリだ。
われながらいい考えだとうれしくなる。これで調子よく回復に向かうだろう。
ところが二日後のことだった。
倅三は横になったまましょんぼりとテレビを見ていた。体には点滴一本繋がっていない。看護師によれば、食事も重湯から五分粥に変わったと言う。
「よかったね、お父さん、体が自由になって。これで今度こそよく眠れるよ」
「医者はもっと前に点滴を止めるって言っていたけどな。なぜか今日になったよ」
「リハビリはやっているの? もう歩いているでしょ?」
「食事がなぁ、うまくないよ。虫が部屋の壁にびっしり止まっているからなぁ……」
なんだか声が湿っている。それは嫌だね、と初も眉をひそめたが、対策が思い浮かばない。虫の話は最近出なかったが、見えなくなったわけではないようだ。
倅三の不安はほかにもあった。
昨日は午前中に予定されていたリハビリが、なぜか午後にずれた。昼食後に体を動かしたせいか、気分が悪くなったらしい。
リハビリといっても、車椅子から立って、短い距離を手すりに捕まり歩くだけだ。それすら満足にできないことに倅三はショックを受けていた。
ロッカーには先日初が持ち込んだフットマッサージャーが一式残っている。使われた形跡はなかった。
入院疲れか、落ちた体力を気に病んでか。
そろそろ合併症が出てもおかしくない時期だった。
倅三を元気づけるため、初が次に持ち込んだのは、カップがついた人工芝のマットである。カップインの練習にと倅三が家で使っているものだ。パターとゴルフボールも合わせて、ちょっとした大荷物を、初は電車とバスで運び込んだ。
「お父さん、気晴らしにどう?」
愛用の練習セットを見せると、倅三は顔をパッと輝かせた。
「管を外すのはまだ無理です。観社さんはせん妄がありますから。ドレインを抜いてしまったり、なにかと問題が起きるんですよ。おひとりでトイレに行って倒れても困りますし」
筋力を落とさないよう、倅三は医師から散歩を指示されている。管が外せないなら、看護師が付き添えば済む。
歩かなかったら傷が内臓に癒着するだろう。いいことはなにも起きない。
着替えの補充と看護師から体調を聞き取ることは済んでいた。倅三を病室の外に連れ出せないなら、初にはもうすることがない。
身じたくを整え、腰を浮かせたとたん、倅三が夢見るように言った。
「おい、庭のブーゲンビリアの葉は出たか。いい時期だろう」
「ブーゲンビリアねぇ。どうだったかな。見ていないからわからない」
庭の花に目を止める余裕などどこにあるのか。引き止められていることを感じた初は腰を下ろし、しばらく倅三の相手をすることになった。
実家に泊まったその夜、未明に目を覚ました初は、眠りに戻れる気がしなかった。手術の傷口が癒着しているかもしれない。歩かないことで回復が遅れたら……。
ついに布団をはねのけスマホを手にとる。そうだ。歩行訓練ができないなら、寝たまま血の巡りをよくすればいいのだ。
家電量販店のサイトで、ローラー式のマッサージ機を見つける。脚に巻いて空気圧を加える機種もよさそうだ。
結局、初自身が前から気になっていた加圧タイプを選んだ。明日、見舞いへ行く途中、店舗で受け取る。そう決めたら、眠れる気になった。
翌日、初は久しぶりに倅三の晴れやかな顔を見た。
「このあと、車椅子に乗る練習に行くらしいよ。やっとだよ」
「よかった。ねぇ、圧着ストッキングを履いていないけど、どうしたの?」
「あれはハサミで切られちゃった。もったいなかったなぁ」
「お父さん、大丈夫。新兵器を買ったから」
手に入れたばかりのマッサージ機を、うやうやしく箱から出す。倅三のふくらはぎや太ももに巻いて、スイッチを入れた。空気が入ると脚が気持ちよく締め付けられるはずだ。
「ほー、いいな」
慣れない感覚に倅三は目をパチパチさせている。漂うラベンダーの香りは、病室を癒しの空間にしようと、ついでに買ったディフューザーからだ。
ベッドで素敵な香りに包まれ、マッサージ機に身を委ねる。ときどき歩く練習もできれば、最高のリハビリだ。
われながらいい考えだとうれしくなる。これで調子よく回復に向かうだろう。
ところが二日後のことだった。
倅三は横になったまましょんぼりとテレビを見ていた。体には点滴一本繋がっていない。看護師によれば、食事も重湯から五分粥に変わったと言う。
「よかったね、お父さん、体が自由になって。これで今度こそよく眠れるよ」
「医者はもっと前に点滴を止めるって言っていたけどな。なぜか今日になったよ」
「リハビリはやっているの? もう歩いているでしょ?」
「食事がなぁ、うまくないよ。虫が部屋の壁にびっしり止まっているからなぁ……」
なんだか声が湿っている。それは嫌だね、と初も眉をひそめたが、対策が思い浮かばない。虫の話は最近出なかったが、見えなくなったわけではないようだ。
倅三の不安はほかにもあった。
昨日は午前中に予定されていたリハビリが、なぜか午後にずれた。昼食後に体を動かしたせいか、気分が悪くなったらしい。
リハビリといっても、車椅子から立って、短い距離を手すりに捕まり歩くだけだ。それすら満足にできないことに倅三はショックを受けていた。
ロッカーには先日初が持ち込んだフットマッサージャーが一式残っている。使われた形跡はなかった。
入院疲れか、落ちた体力を気に病んでか。
そろそろ合併症が出てもおかしくない時期だった。
倅三を元気づけるため、初が次に持ち込んだのは、カップがついた人工芝のマットである。カップインの練習にと倅三が家で使っているものだ。パターとゴルフボールも合わせて、ちょっとした大荷物を、初は電車とバスで運び込んだ。
「お父さん、気晴らしにどう?」
愛用の練習セットを見せると、倅三は顔をパッと輝かせた。