第48話 二往復
文字数 1,583文字
電話はつながったが、初の心配はむしろ膨らんだ。
乃津麻はいつ家に着くのだろうか。
父はどうなったのか?
黙って待つよりはと、汚れていないテーブルを拭き、窓ガラスを磨いた。玉ねぎのみじん切りまで始めたが、チラチラ眺める時計は進まない。ついにクッションを床に投げつけると、初はソファに身を投げ出した。
間もなく八時というころ、電話が鳴った。
「あんた、留守中に何回も電話してきて、一体なんなの」
「なんなの、って?」
「バッカじゃないの!」
乃津麻は固定電話の着信履歴を見たのだろう。
「もう帰っているかな、と思ったの。それでかけていたのだけど」
「帰っているわけないでしょ。たった今よ、今、戻ったのは」
「遅かったね」
「バカなこと言わないでよ。もうくったくた」
乃津麻は堰を切ったように一日の報告を始めた。
朝イチで病院に行ったのに、入院が決まり病室に案内されたのが午後三時。しかたなく必要な物を取りに帰り、結局、家と病院を二往復したという。
「お母さん、一日分ぐらい下のコンビニで買えばよかったのに」
「なにを言っているの。そんなことできるわけないでしょ」
「そうかな」
「あれもこれも、いろいろ必要なのよ。入院ってそういうことなのッ!」
いつものヒステリーではあったが、格別に機嫌が悪いことは十分伝わった。
しかし腑に落ちない。
ほんとうにそれらを取りに帰る必要があったのか?
さしあたりいるものといえば、肌着のTシャツ、パンツ、箸、歯ブラシ、歯磨き粉、タオルぐらいだ。
入院中の倅三のパジャマはいつもレンタルである。それだけではスースーするからと、V 首のTシャツを肌着にしている。倅三は潔癖症ではないから、一日ぐらい着替えなくても平気で、それならTシャツは買う必要がない
食事用の箸も、買い物のついでに割り箸を頼めばタダだ。数百円のタオルだって、ナースステーションに用意されている温ウエットティッシュで足りる。
となると買い物は、パンツと歯ブラシ、歯磨き粉。パンツは裏返して履くこともできるから、総額数百円の出費だ。
ほかのものは明日見舞うとき、思う存分持参すればいいのである。わざわざ家までもう一往復、しかも電車とバスを乗り継いで戻る必要はなかった。交通費、時間、労力を考えれば、むしろマイナスだろう。
そんな計算もできず、乃津麻は帰宅に一時間費やした。大きなボストンバッグを腕に、また一時間かけ病院に戻ったと、憐れみを帯びた声で訴える。
「それにね、あの病院ったらひどいのよ。『入院です、今病室を探しています』って言ってから、病室が決まるまで四時間。四時間もかかったんだから」
初にすれば、案内がないのなら「まだですか?」「あと何番目ですか?」「なにを待っているのですか?」とたずねればいいだけだ。彼女たちは嫌な顔ひとつせず調べて答えてくれる。
じっと黙って三時間も四時間も、待合の硬いベンチに腰を下ろしていたなんて、情けなく、腹立たしく、それこそ「バッカじゃないの」と罵倒したかった。
荷物の件だって、せめてタクシーを使うとか、小ぶりなキャリーケースに入れて転がすとか、楽な方法はいくらでもあるはずだ。それなのに、私はこんなに頑張っていると見せつけたいのか、乃津麻は一番大変なやり方を選んだ。
私がついていれば知恵も出せただろうに、と悔やまれる。乃津麻は頭を使うことなく力でやり通した。この緊急事態に機転がきかなかったのだ、と哀れむしかなかった。
「今日は大変だったね、お母さん。眠剤を飲んですぐ寝たほうがいいよ」
「うん、そうするわ」
毒を吐き、乃津麻は少し落ち着いたらしい。ようやく穏やかに電話を切った。
結局、なにもわからなかった。
父はなぜ入院したのか?
どこが悪いのか?
どんな治療をしてなにを目指すのか?
わかったのは、乃津麻が病院でひと暴れしたらしいことだった。
乃津麻はいつ家に着くのだろうか。
父はどうなったのか?
黙って待つよりはと、汚れていないテーブルを拭き、窓ガラスを磨いた。玉ねぎのみじん切りまで始めたが、チラチラ眺める時計は進まない。ついにクッションを床に投げつけると、初はソファに身を投げ出した。
間もなく八時というころ、電話が鳴った。
「あんた、留守中に何回も電話してきて、一体なんなの」
「なんなの、って?」
「バッカじゃないの!」
乃津麻は固定電話の着信履歴を見たのだろう。
「もう帰っているかな、と思ったの。それでかけていたのだけど」
「帰っているわけないでしょ。たった今よ、今、戻ったのは」
「遅かったね」
「バカなこと言わないでよ。もうくったくた」
乃津麻は堰を切ったように一日の報告を始めた。
朝イチで病院に行ったのに、入院が決まり病室に案内されたのが午後三時。しかたなく必要な物を取りに帰り、結局、家と病院を二往復したという。
「お母さん、一日分ぐらい下のコンビニで買えばよかったのに」
「なにを言っているの。そんなことできるわけないでしょ」
「そうかな」
「あれもこれも、いろいろ必要なのよ。入院ってそういうことなのッ!」
いつものヒステリーではあったが、格別に機嫌が悪いことは十分伝わった。
しかし腑に落ちない。
ほんとうにそれらを取りに帰る必要があったのか?
さしあたりいるものといえば、肌着のTシャツ、パンツ、箸、歯ブラシ、歯磨き粉、タオルぐらいだ。
入院中の倅三のパジャマはいつもレンタルである。それだけではスースーするからと、V 首のTシャツを肌着にしている。倅三は潔癖症ではないから、一日ぐらい着替えなくても平気で、それならTシャツは買う必要がない
食事用の箸も、買い物のついでに割り箸を頼めばタダだ。数百円のタオルだって、ナースステーションに用意されている温ウエットティッシュで足りる。
となると買い物は、パンツと歯ブラシ、歯磨き粉。パンツは裏返して履くこともできるから、総額数百円の出費だ。
ほかのものは明日見舞うとき、思う存分持参すればいいのである。わざわざ家までもう一往復、しかも電車とバスを乗り継いで戻る必要はなかった。交通費、時間、労力を考えれば、むしろマイナスだろう。
そんな計算もできず、乃津麻は帰宅に一時間費やした。大きなボストンバッグを腕に、また一時間かけ病院に戻ったと、憐れみを帯びた声で訴える。
「それにね、あの病院ったらひどいのよ。『入院です、今病室を探しています』って言ってから、病室が決まるまで四時間。四時間もかかったんだから」
初にすれば、案内がないのなら「まだですか?」「あと何番目ですか?」「なにを待っているのですか?」とたずねればいいだけだ。彼女たちは嫌な顔ひとつせず調べて答えてくれる。
じっと黙って三時間も四時間も、待合の硬いベンチに腰を下ろしていたなんて、情けなく、腹立たしく、それこそ「バッカじゃないの」と罵倒したかった。
荷物の件だって、せめてタクシーを使うとか、小ぶりなキャリーケースに入れて転がすとか、楽な方法はいくらでもあるはずだ。それなのに、私はこんなに頑張っていると見せつけたいのか、乃津麻は一番大変なやり方を選んだ。
私がついていれば知恵も出せただろうに、と悔やまれる。乃津麻は頭を使うことなく力でやり通した。この緊急事態に機転がきかなかったのだ、と哀れむしかなかった。
「今日は大変だったね、お母さん。眠剤を飲んですぐ寝たほうがいいよ」
「うん、そうするわ」
毒を吐き、乃津麻は少し落ち着いたらしい。ようやく穏やかに電話を切った。
結局、なにもわからなかった。
父はなぜ入院したのか?
どこが悪いのか?
どんな治療をしてなにを目指すのか?
わかったのは、乃津麻が病院でひと暴れしたらしいことだった。