第41  失踪

文字数 1,752文字

 週明けに退院、と桐鯛医師から聞いた帰り。
 まっすぐ家に帰るのはもったいない気がして、初はだるい足を引いて美術展に向かった。
 浮世絵の展覧会はにぎわっていた。普段なら人混みを避けるのに、今日は群衆の一人でいるのがなぜか心地いい。
 そのまま上野公園を散歩して、ペルーの民族音楽を奏でる一団に投げ銭をする。倅三が無事退院する喜びは、どう表現しても足りそうになかった。
 弾との待ち合わせは、新橋のやきとん屋だ。日本酒を二杯、普段ならこれで十分楽しくなれるのに、今日はなぜかほろ酔いもしない。
 二軒目のバーでバーボンのソーダ割りを頼む。いつもの締めの一杯だが、ダメ押しのモヒートに行きついても、なんともないのが不気味だった。
 頭痛と強烈な喉の渇きをおぼえたのは、家に着いてから。浅く短い眠りのあと、夜が明けぬうちに目が冴えた。週明けに退院か、とぼんやりした頭で思い、ニヤニヤする。
 疲れでヨレヨレの体を起こし、バルコニーに立ったのは午前九時。弾はオレンジジュースを片手に、例のごとくボンボンベッドに横たわっていた。
「おはよう。弾は朝から元気だね」
「ねぇ初、ともを呼んでお父さんの退院前祝いをしようよ。今日も明日も天気がいいみたいだよ」
「そうだね。芽さんはうちに来たことがないし、いいかもしれない。ともにちょっと聞いてみる」
 テーブルから初物のさくらんぼをつまむと、初はスマホを探しに部屋に戻った。

 その日の遅い午後、芽はともに連れられ姿を見せた。ラベンダー色の麻のワンピースに、ほっそりした白のサンダル。手にしたポーチはスマホしか入らない小ささで、おしゃれの見本のようだ。
「ま、センスのいいお宅ねぇ。あらー、海も見えるのね。まあ、お隣のお庭もきれいだこと。あなたたち幸せね、こんなお家に住めて」
「ありがとうございます、芽さん。こちらへどうぞ」
 海を見渡す一番いい席に弾が案内する。芽は躊躇なく腰を下ろし、乾杯となった。
「お父さんがすい臓がんだって初から聞いて、最初はずいぶん心配だったけど。手術は成功、二週間で退院だなんてすごいよね、弾さん」
「初はチキンだから、どこかに落とし穴があるはずだ、ってずっとビクビクしているの。心配し過ぎだよな」
「あんたみたいな能天気な日なたぼっこ野郎にはわからないの、私の繊細さが。生検の結果もまだだし、なにを言われるか怖いよね」
「なにか言われるの? 困ったことになるの?」
「つまりこういうことす、芽さん。
 切った膵臓の断面を手術中に超特急で簡易検査しました。がんが見つからなかったら縫い合わせました。でもあとでよーく調べたら残っていました。そんなことがよくあるみたいですよ。
 これまでは順調だったけれど、これから先はどうなることやら」
「あら、そんなことがあるの? 嫌ね、がっかりしちゃうわ」
 勧められるまま杯を重ねる芽は、目に妖しい光をたたえている。
「だから生検の結果を聞くまでは安心できないですよね」
「でも檀が心配していた急変とかはなかったわけだし。そもそも手術できる段階で見つかったのは強運よね」
「本当に運がよければがんになってないよ」
「意地悪だなぁ、弾さんは」
「今や日本人の二人に一人はがんになって、三人に一人はがんで亡くなる。ここにいる四人のうち二人は将来のがん患者で、一人はそれで死ぬんだぜ」
「もう飲む気が失せた。弾さんの責任だからね」
「弾は悪趣味悪趣味だから。でもこんなこと言っていても、自分だけはがんにならないって思っているの。ほんもののバカよ。
 それはそうと、芽さん、大磯の住み心地はどうですか」
「とってもいい街ね。海があって山もあって、静かで品がよくて」
「街はいいけれど娘の家がいまいちでしょ。ガミガミ言われて」
「そんなことないですよね。ともは芽さんに十分尽くしていると思うよ」
「ほら、ママ、周りの人はそう見ているのよ。私は孝行娘なの」
「あらまあ、そうかしらね。おほほほほほ」
 よく飲み、よく笑い、よく食べた。
 朗らかに夕べを楽しんだ芽は、数日後、いなくなった。ともの引き出しには、何かの支払いに用意していた五十万円がなくなっていた。
 一方、週末に大部屋に移された倅三は、そこで二泊したのち、退院した。医師の言葉通りだった。

 しかしその一週間後、再入院となった。
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