第19話  手が離せない

文字数 2,132文字

「インシュリンの注射、そのうち慣れますよね、先生? 最初は大変だと感じても」
 すい臓を全摘すると糖尿病になる、と指摘した初は、地雷を踏んだようだ。
「そうですね、そういう患者さんはたくさんいらっしゃいます。手術しないでがんを放置する方が深刻です」
 同意し、反発する両親をなだめ、手術に向けて背中を押してくれるはずだった。
 ところが、思案した将加医師は、首を傾げたまま言った。
「注射は一日四回じゃなくて、三回でもいいかな。うん、三回でもイケます」
「インシュリン注射なんて大変よ」
 乃津麻はぶつぶつと、嫌味っぽく呟き、不機嫌がとまらない。
 糖尿病についてなにも知らないくせに、と初は叫びたくなる。
 そのとき気づいた。
 確か、母方の祖父が糖尿病で片脚を切断していたはずだ。乃津麻は糖尿を抱える父親の不自由を、身近に見ていていたのだ。
 これで手術の可能性は消えた。途中まで、どれくらい切るのかと聞くまでは倅三もその気になっていたのに。
 でもこれだけは確かめておきたかった。
「手術しなかった場合、どのように……」
 思いがけず気持ちが溢れて言葉に詰まる。
「……どのように弱って……いくのでしょうか」
 潤んだ目元を隠さず、まっすぐ見つめる。
「それはわかりません、患者さんお一人、お一人違いますので……」
 医師もいつの間にか、目に光るものを貯めている。
「とにかく、外科の城市先生の話を聞いていただけないでしょうか。丁寧に説明されますから。今言えるのはそれだけです」
 診察室から出ると、倅三は「ちょっとトイレ」と離れた。
 乃津麻は固い長椅子に腰を下ろすやいなや、初をにらむ。
「ちょっとあんた、言っとくけどね、涙見せちゃだめでしょ。絶対だめなんだからね」
 キンキン声で、私は気力で踏ん張っているのに、と言わんばかりだ。
 すべてが終わった。
 倅三は「もう外科の先生の話はいいよ」と帰りたがるだろう。手術の可能性は消えたのだ。
 ハンカチで手を拭きながら戻った倅三の目は赤かった。気を沈めようと顔を洗ったに違いない。
 城市医師の話は約束の時間が決まっていなかった。夕方、とだけ知らされたが、まだ二時前だ。手術が終わりしだい現れるのか。どこからか移動してくるのか。なにもわからない。
 言葉もなく、並んで座っているところに将加医師が現れた。
「先ほど城市先生からお話が、と伝えましたが、今日は手が離せないそうです。遅くならないうちに桐鯛先生から説明いたします」
 軽く見られたものだ。
 初はそう思った。
 城市医師はこの科の長で指導医である。大病院のトップ医師だから手術の腕は間違いないと倅三にも言い聞かせ、説得材料にした。
 それなのに、手が離せないからと、大事な手術の話を他の医師にさせるのか? この扱いは、城市医師あての強力な紹介状を持っていないからだ。 
 スマホを取り出し病院のホームページを検索する。肝胆膵外科に桐鯛医師の名前と写真を見つけたが肩書きはない。出身大学の下に「日本外科学会専門医」とあるだけで、余白の多い寂しいプロフィールだ。
「なんで城市先生じゃないわけ? 城市先生の話を聞きに来たのに。そんなことってあるの?」
 乃津麻の不躾な一言に、将加医師は「すみません」と頭を下げる。しかし城市医師が来ない状況は変えようがなかった。
 医師が去ると初は考えた。
 桐鯛医師は説明だけだ。説明さえうまければいい。でも、会ったこともない人が、感じがよくて話し上手か、わかるわけがない。
 実物より写りがいいのか悪いのか不明の、ホームページの写真をじっと見る。この変更を受け入れるべきかどうか、結論は出ない。
 桐鯛医師はあたりかもしれないし、ハズレかもしれない。
 将加医師が「丁寧に説明する」と評する城市医師は、多分あたりだ。
 そう気づくと、手術の話は城市医師から聞こうと考えがまとまった。
「お母さん、やっぱり城市先生がいいよね、説明してもらうの」
「そりゃそうよ。ずっとそのつもりだったんだから」
「お父さんもそう思う? 城市先生から聞きたい?」
「そうだな」
 乃津麻には城市医師の輝かしい経歴を話していない。期待があるなら、倅三から聞いたことになる。
「だれから説明されても同じ」と投げやりになりそうな乃津麻にしては意外な反応だった。
「もういいよ、帰ろう」と放り出してもおかしくない倅三が、城市医師にこだわるのも予想外だ。
「じゃ、遅くなってもいいから、城市先生から話を聞きたいって頼んでくるね。三時間ぐらい待つかもしれないけれど、しょうがないよね」
「こうなったらいくらでも待つわ。早く頼んで」
 帰りが遅くなるのは嫌だと、普段なら乃津麻が文句を言う場面だ。きっと思うところがあるのだろう。
 外科の待合受付は意外に親切だった。
「連絡してみます、ってよ。どうなるかな、うまくいくといいけれど」
 そう報告したときだ。
「観社さん、三番にお入りください」
 診察室から男の声がマイクを通して流れた。
「もう呼ばれた。だれ先生だろう」
 確信が持てない初を、眉間にしわを寄せた乃津麻が見つめる。
「呼ばれているよ」
 倅三はひょうひょうと、愛用のポシェットを手に立ち上がる。
 初と乃津麻は顔を見合わせたまま、腰を上げられなかった。
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