第44話  ラーメン

文字数 1,839文字

「運転手さん、乗ってもいい? 空車でしょ? 家の前でもう一人、拾ってほしいのだけれど」
 切羽詰まった声に、運転手はのんびり「どうぞ」と答えた。
 車が動き出すと、交差点に倅三の姿が見えた。開いた自動ドアから初は身を乗り出した。
「お父さん、早く、早く」
 力のこもった手招きをすると、倅三は黙って車に乗った。
 1秒でも早く病院に届けなくては、と気がせく。
 その横で倅三は、けろっとして得意の最短コースを指示している。
 かしこまりました、と若い運転手は丁寧に返した。ところがカーナビに従ったのか、倅三の意図しないところでハンドルが切られた。
「おかしいな、ここは真っすぐって言ったのにな」
 倅三が気を取り直すまもなく、車はあらぬ方向へ進む。
「あれあれ、なんでこっち来ちゃったの? さっきも真っすぐって言ったところを曲がったでしょ。言った通りに行って」
「すみませんねぇ、運転手さん。父はつい数カ月前まで個人タクシーをやっていたもので。道にはこだわりがあるみたいです」
 素人がうるさく口出ししているのではない。そうわかったからか、運転手は素直に謝った。そしてルームミラー越しに話しかけてきた。
「個人さんだったのですか。営業は何年ぐらい?」
「会社で十年、個人で四十五年。合わせて五十五年かな」
「へぇ、レジェンドですね。最初のころ、初乗りはいくらでしたか?」
「車の大きさによるよ。五十円、六十円、七十円ってあってね。俺のはルノーの2CVだから六十円。若かったから、『兄ちゃん、お父さんの車を持って来たのかい』なんてよくお客さんにからかわれたよ」
 まんざらでもなく倅三は応じているが、初は気が気ではない。眉間にシワを寄せ、父をそっとしておいて、運転に集中して、と念じるのだった。

 やっとたどりつた病院は、いつものようにごった返していた。予約のない倅三はいつ診てもらえるかわからない。午前の予約患者がすべて終わってから、の可能性もある。
 硬い長椅子に腰をおろし、なにも手につかぬまま一時間。先は長いと悟った初は、コンビニでゴルフ雑誌を買った。ぼんやりしていた倅三も実は退屈だったのか、雑誌を手にすると笑顔を見せた。
 受付番号がディスプレイに表示されたのは、正午まであと数分というころ。
 診察室にいたのは知らない医者だった。そういえばこの日の外来は、馴染みの肝胆膵チームでなく消化器内科だ。
 見るからにひよっこの、おそらく二十代の医師は、初の説明にうなずくと口を開いた。
「そうですか、食べられないのですね……。そうだなぁ、胃を少し削っているので、分割して少しずつ口に入れるようにしてください」
「先生、そもそも父に食欲がないのが問題なのですが」
 マニュアル通りの対応に、初はイライラを抑えきれない。
「ああ、そうですねぇ……」
「薬が多過ぎると本人は感じていて、そのせいもあるのかな、と。少し減らすことはできないですか?」
 初が渡した薬のリストを医師はじっと眺める。倅三は朝だけで十四種類服薬していた。
「このリストの上から五番目までは大事だし、その下も……。うーん、今のところは全部飲んでおいたほうがいいですね。とりあえ今日は点滴でも打たせてもらおうかなぁ」
 なんの点滴? 食欲が出るのですか? 初は口から出そうな言葉を飲み込んだ。なにもしないよりマシかもしれない。
「まずレントゲンと採血をしてきてください。戻ったら点滴をしますから」
 診察室を出ると、初はゆっくり歩きながら隣の倅三を見た。
「もうお昼だね、お父さん」
「そうだな。ラーメンはどうだろう」
「ラーメン? ラーメンを食べるの?」
「うん」
「そうなの? じゃ、レストランとスタッフ用の食堂と、どっちにする? どちらにもラーメンはあるよ」
「駅のそばのラーメン屋でとんこつラーメンが食べたいな。あの店は一回行ったことがあるよ。味が自分の口に合っている」
 倅三は弾んだ声でチェーンのラーメン屋の名前を挙げた。
 食欲がなく病院に来ているのではないのか? 点滴はまだ受けていないのに、もうラーメンを求めるとは。しかも倅三はお昼ではなく夕飯の話をしていた。
「ラーメンは、食べられればいくら食べてもいいのかな、初?」
「そりゃ……いいと思うよ、別に」
 憑かれたようにラーメン、ラーメンと口にする倅三には、ほかのことは考えられないようだ。
 この人はほんとうに食欲がないのか? タクシーで病院に出向いたのは大げさだったのではないか?
 初はやきもきし通しの自分が間抜けだった。
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