第21話  決断

文字数 1,853文字

 桐鯛医師に見つめられた倅三は、目で初にすがった。ムダだとわかると、今度は乃津麻をうかがい、メモに向かい、うーんと唸る。そしてもう一度、妻と娘に視線を走らせ、自信なさげに目をぱちぱちさせた。
「それじゃちょっと、音人にも聞いてから……」
「聞く必要ないわよ。手術するのでしょ? 私が『止めろ』って言ったら、『そうだな』って従うわけ?」
 意外だった。初はきっと、乃津麻が反対すると思っていたが、そうではなかった。乃津麻も桐鯛医師を気に入ったのだろう。
 厳しい話をしている割には、部屋に緊張感はない。ただ倅三だけが落ち着きを失っていた。
「ねぇ、お父さん、弾が電話で『お元気ですか』ってたずねるでしょ。そうしたら『流れのままに生きています』って答えるよね。今、流れはどうなの? 手術、それとも……」
「そうなんだよなぁ」
 倅三は自分に言い聞かせるようにうなずく。
 あと一押しだ。
 初は用心する。今度こそ余計な情報を挟まないようにしなくては。
「先生、もし手術するとしたらいつごろですか? 大学病院だから、混んでいますよね。一、二カ月は待ちますか?」
 桐鯛医師はコンピューターを調べ、カレンダーを確認する。
「一週間後です、ゴールデンウィーク明けの」
「入院してから、一週間後に手術ですか?」
「いえ、今日から五日後に入院して、手術はその二日後です。
 入院の日は特にすることもないですよ。翌日は麻酔医の話などで忙しいですが」
「そんなにすぐ……。あの、早いほうがいいのでしょうか? 一週間後はちょっと急な感じで」
「待っていても、なにもよくはならないですけれど」
 ああ、なるほど。
 初は無言でうなずいた。
 もう聞くことはなかった。
 医者は静かに、急かすことなく、じっと倅三を見守っている。
 そういえば、すい臓がんは再発のリスクが低くないとインターネットにあった。そのことを聞こうか?
 いや、ダメだ。そんな話を今持ち出せばぶち壊しになる。
 倅三が思い詰めた顔で口を挟んだ。
「先生、こんな話を聞きましてね。
 家内の知り合いで、胃がんだった人がいるんです。がんは全部取り切れる、ってことで手術を受けました。でも取り残しがあったようで、寝たきりになり、亡くなった。
 私もそうなっては困ると思いまして……」
「それは違いますよ、観社さん。そういうことにはなりません」
「膵臓は全部取るのでしょうか」
「いえ。開けてみないとわかりませんが、半分ぐらいかな」
 桐鯛医師の見解はきっぱりしていた。将加医師のように、場合によっては全部取るかもしれないと、最悪を含んだ話ではない。必ず少しは残せるから、糖尿病は避けられるだろう、との明るい見通しだった。
 術後の回復が大変だ、と知らせる檀のメールが頭をよぎる。しかしいまは倅三を刺激しないでおきたい。
「手術のあと、問題が起きる可能性はどうですか?」
「合併症は一定の割合で出ます。しかしほんとうに大変なことになるのは、そうですね、百人に一人かな」
 いいことも悪いことも伝える。ただほとんど起きないリスクを細々話して怖がらせることもない。それが桐鯛医師の方針のようだ。
 外科医は切るのが商売だ。手術への説得も仕事のうちだろう。
 とはいえ話し方ひとつでこんなにも違うのかと初は感心し、完全に委ねる気になった。
 あの難しい乃津麻が心を開いているのだ。あとは倅三が「お願いします」と言うだけだ。
 しかしいつまでも場は静まり返っていた。
「……じゃ、それで行くか。先生も大変でしょうが、ひとつよろしく……」
 観倅三が観念して頭を下げたのは、永遠にも感じる時間のあと。
 声にならない安堵のため息が、部屋を満たした。
 大きな前進だった。
 本音のところでは、はるかに症例数の多いがん専門病院でのセカンドオピニオンを、初は願っている。ただ、そんな欲を出せば倅三の気が変わるに違いなかった。一旦そうなると、もうどんな説得にも耳を貸さないことは想像できた。
 今日のこの決断のまま、一気にことを終えてしまおう。がん専門ではないけれど、ここだって日本有数の病院だ。
 初は自分に言い聞かせ、セカンドオピニオンをあきらめた。

 雨はしばらく前に上がったようだ。乾き始めたアスファルトが道をまだらにしている。
 駅に向かう三人の先頭は倅三だった。両腕を高く伸ばし、ときおり体を左右にひねったりして歩いている。手術を決められた喜びが、全身からあふれ出ていた。
 このまま気が変わらなければいいけれど……。
 膨らむ心配を、初はなんとか押さえ込もうとした。

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