第47話 不穏
文字数 1,563文字
ラーメン屋の隣は、初の愛用する古着屋だ。このところ、倅三の入院で身なりをかまうどころではなかったが、気になった。
「お父さん、この店に入らない? けっこういいものあるよ」
「若い人のものばかりだろう。俺に合うのはないよ」
「そうでもないけどな。ねぇ、これなんかどう? ちょっと試してみたら」
店先のマネキンがかぶるパナマ帽には300円の値札がついている。いつもサイズに困る頭の小さな倅三が、値段に魅かれたのか、ひょいと頭に乗せると、あつらえたようにぴったりだ。初に連れられ奥の鏡に向かった倅三は、満足げな声をあげた。
「悪くないな」
「すごく似合っているよ、お父さん」
「店員さん、これ、もらうよ。袋はいらない。値札だけ取って。かぶっていくから」
「ありがとうございます。よくお似合いですよ」
店員の愛想に見送られ、倅三は鼻歌交じりに家路についた。
ラーメン完食で自信がついたのか、翌日は初を最寄りの駅まで車で送ると言い出した。
倅三が最後に運転したのは手術の前、もう数週間になる。久しぶりのはずだが手慣れたハンドルさばきは、安心して助手席に乗っていられるものだった。
もう大丈夫。処方された栄養剤と補助食品でしのげばお腹もすくだろう。そうすれば元の生活に戻れるはずだ。
初は今度こそ、肩の荷を下ろせる気がするのだった。
乃津麻から尖った声で電話があったのは、倅三がラーメンを完食した二日後。大磯でお昼のパスタをゆでているときだった。
「初? 私、今、病院」
「うん、どうしたの?」
「最悪、もう」
いらだった声音に、ギクリとする。倅三が死んだのか?
「お父さんね、昨日、あんたを駅に送ってからゴルフの練習に行ったの。帰ったらもうふらふらで、動けないって。
なにも食べないで寝たけれど、今朝もふらふらするって。それでタクシーで病院まで来たのよ。血液検査をしたら脱水が進んでいて腎臓にも影響が出ていますから、このまま入院してください、って。
もう最悪だわ、最悪。うちに帰ったらかけ直すから」
そう言い放つと、例によって電話は切れていた。
父はいよいよどうにかなるのか?
いったいなにが起きているのだろう。
モヤのかかった頭で考えても、堂々めぐりだ。
死んでいないなら十分だ。しかし再入院とはどういうことか? とんこつラーメンを平らげるほど順調だったではないか?
入院中食が細かったのは、病院食が合わなかったせいだ。しかし退院しても食欲が戻らないなら、食事の内容が問題ではないのだろう。入院させ、点滴などで強制的に栄養を摂らせるということか?
車で送ってもらってから、まだ二十五、六時間しか経っていなかった。駅で別れるとき、初は運転席の倅三にたずねたものだ。
「お父さん、合言葉は忘れていない?」
「なんだっけ」
「『水分補給』でしょ。ご飯が食べられないと脱水が怖いよ。お父さんは水も嫌いで飲まないから気をつけないと」
「おお、そうだった。『水分補給』だな、おぼえておくよ」
「明日は病院について行かないけれど、一人で大丈夫だよね? 最初が血液検査で、一時間後に診察。予約時間の一時間前には着いていないとダメだよ」
「大丈夫。いつもそうしているから」
そんな会話をしてから、まだ1日しか経っていないのに。
昼に病院から不穏な電話をかけた乃津麻は、その後、連絡をよこさなかった。
なにも手につかぬまま、五時、五時半、六時。根気よく実家の電話を鳴らすが、留守電が虚しく対応した。
夕食は五時と決まっているから、こんな時間まで外にいるわけがない。疲れて帰ってお風呂に直行? それともまだ買い物か?
だいぶ迷ってから六時半に、今度はケータイにかけた。
「あんたなの、初? 今、電車。帰ったらかけるから」
乃津麻はあたりをはばかる小声で、しかしぶっきらぼうに言って切った。
「お父さん、この店に入らない? けっこういいものあるよ」
「若い人のものばかりだろう。俺に合うのはないよ」
「そうでもないけどな。ねぇ、これなんかどう? ちょっと試してみたら」
店先のマネキンがかぶるパナマ帽には300円の値札がついている。いつもサイズに困る頭の小さな倅三が、値段に魅かれたのか、ひょいと頭に乗せると、あつらえたようにぴったりだ。初に連れられ奥の鏡に向かった倅三は、満足げな声をあげた。
「悪くないな」
「すごく似合っているよ、お父さん」
「店員さん、これ、もらうよ。袋はいらない。値札だけ取って。かぶっていくから」
「ありがとうございます。よくお似合いですよ」
店員の愛想に見送られ、倅三は鼻歌交じりに家路についた。
ラーメン完食で自信がついたのか、翌日は初を最寄りの駅まで車で送ると言い出した。
倅三が最後に運転したのは手術の前、もう数週間になる。久しぶりのはずだが手慣れたハンドルさばきは、安心して助手席に乗っていられるものだった。
もう大丈夫。処方された栄養剤と補助食品でしのげばお腹もすくだろう。そうすれば元の生活に戻れるはずだ。
初は今度こそ、肩の荷を下ろせる気がするのだった。
乃津麻から尖った声で電話があったのは、倅三がラーメンを完食した二日後。大磯でお昼のパスタをゆでているときだった。
「初? 私、今、病院」
「うん、どうしたの?」
「最悪、もう」
いらだった声音に、ギクリとする。倅三が死んだのか?
「お父さんね、昨日、あんたを駅に送ってからゴルフの練習に行ったの。帰ったらもうふらふらで、動けないって。
なにも食べないで寝たけれど、今朝もふらふらするって。それでタクシーで病院まで来たのよ。血液検査をしたら脱水が進んでいて腎臓にも影響が出ていますから、このまま入院してください、って。
もう最悪だわ、最悪。うちに帰ったらかけ直すから」
そう言い放つと、例によって電話は切れていた。
父はいよいよどうにかなるのか?
いったいなにが起きているのだろう。
モヤのかかった頭で考えても、堂々めぐりだ。
死んでいないなら十分だ。しかし再入院とはどういうことか? とんこつラーメンを平らげるほど順調だったではないか?
入院中食が細かったのは、病院食が合わなかったせいだ。しかし退院しても食欲が戻らないなら、食事の内容が問題ではないのだろう。入院させ、点滴などで強制的に栄養を摂らせるということか?
車で送ってもらってから、まだ二十五、六時間しか経っていなかった。駅で別れるとき、初は運転席の倅三にたずねたものだ。
「お父さん、合言葉は忘れていない?」
「なんだっけ」
「『水分補給』でしょ。ご飯が食べられないと脱水が怖いよ。お父さんは水も嫌いで飲まないから気をつけないと」
「おお、そうだった。『水分補給』だな、おぼえておくよ」
「明日は病院について行かないけれど、一人で大丈夫だよね? 最初が血液検査で、一時間後に診察。予約時間の一時間前には着いていないとダメだよ」
「大丈夫。いつもそうしているから」
そんな会話をしてから、まだ1日しか経っていないのに。
昼に病院から不穏な電話をかけた乃津麻は、その後、連絡をよこさなかった。
なにも手につかぬまま、五時、五時半、六時。根気よく実家の電話を鳴らすが、留守電が虚しく対応した。
夕食は五時と決まっているから、こんな時間まで外にいるわけがない。疲れて帰ってお風呂に直行? それともまだ買い物か?
だいぶ迷ってから六時半に、今度はケータイにかけた。
「あんたなの、初? 今、電車。帰ったらかけるから」
乃津麻はあたりをはばかる小声で、しかしぶっきらぼうに言って切った。