第32話  プライド

文字数 1,714文字

 迎えの看護師がやって来た。
 手術に向かう倅三を、初は乃津麻とともに見送る。
 すぐ下の階だからと、エレベーターに乗らず、四人は階段を使った。
「行ってらっしゃい。お父さん、頑張ってね」
「おお、行ってくるよ」
 軽く手を振り倅三は、手術室のドアの向こうへあっけなく吸い込まれた。
 父の残像が消えないうちに、初は乃津麻を振り返った。
「あとは終わるまで動きがないよ、お母さん。家に帰りなよ。ほら、こんな所で待つんだよ。疲れるよ、きっと」
 手術室に隣接する待合室は、ソファとローテーブルが置かれただけの殺風景な空間だ。文句の多い乃津麻には、とても耐えられないだろう。
 乃津麻はしばらく部屋を見つめてから、思案げに口を開いた。
「そうねぇ……。じゃ、そうさせてもらうわ。終わるころまた戻るつもりだけれど」
「早く来ても待たされるだけだからね。六時か六時半でいいよ。その前に終わりそうなら電話をするから」
「わかった。じゃ、あとで」
 こうして乃津麻は形だけ、つまり、最初と最後に顔を見せるだけと決まった。
 実のところ初は、この件に関して、母になにかをした気になってほしくなかった。こうなったら戻ってこないでもらいたい。初めから終わりまで自分が待機して、父の手術を一人で支えたと自負したいのだ。
 乃津麻が帰ると、長い手術時間をどう過ごすか、待合室の入り口で初は考えあぐねる。
 手術中は倅三のベッドが使えると聞いていた。カーテンで身を隠し、ベッドでテレビを見てお菓子を食べる。ときどき昼寝もいいだろう。
 気ままに過ごすつもりで雑誌まで買い込んだのだ。それなのに今日になって、手術後はこの部屋には戻らないので荷物をまとめるよう指示された。
 だれもいない待合室に足を踏み入れ、初はとりあえずテレビをつける。だだっ広い空間のどこに居場所を作るかが問題だ。窓際は明るいけがテレビがよく見えない。反対側はもたれる壁があるものの空調が直撃する。
 結局、どっちつかずの場所に座り、カバンから週刊誌を取り出す。今日はここでゆっくりしよう。
 ふと目を上げると初老の男性が入って来るのが見えた。患者の家族だろう。反対側の隅で新聞を広げるのを確認し、仲間を得た気になる。
 週刊誌を終えると、おもむろに初は立ち上がった。軽いストレッチを試みるが、どうもいけない。席は慎重に選んだつもりだ。しかし恐れたように空調にやられ、手足が冷え切っている。
 その場を離れることにうっすら不安はあった。手術中におかしなことになり、看護師が呼びに来たら? 
 そうこうするうち、緊急時にはケータイに連絡が入ることを思い出した。便利な時代だ。
 スマホを取り出すと十時。行くあては地下のフードコートしかない。
 朝が早く朝食はまだだが食欲はなかった。それでもコンビニで、パンと野菜ジュース、スープを手に入れる。
 モービルの揺れる吹き抜けの下、人もまばらなテーブルの間を進み、簡素な椅子を引く。パンをちぎり、スープをすするうちに体が温まり、突然、眠気に襲われた。
 昨晩もあまり眠れなかった。いや、倅三が緊急入院して以来、ゆっくり寝たと思える日はない。
 窓際には一対の一人がけソファが空いていた。
 隣のテーブルには男性が、野球帽を目深にかぶって寝ている。彼もおそらく患者の家族だろう。
 初は隣人をまねてソファどうしを寄せてみた。ビジネスクラスのベッドに似た空間。そこに足を伸ばしたとたん、意識を失った。
 首ががくんがくんとなるたびにハッとする。ガラス張りの空間を太陽が強烈に照らしている。まぶしいと感じる間もなく瞼が下りる。疲れの染みた体は重く、絞れば疲労が滴るようだ。
 ふとした拍子に意識は戻ったが、目は開けられなかった。ときどき強い意志で目をこじ開けると、テーブルの顔ぶれが変わっていた。電話がないところを見ると、手術はとりあえず順調なのだろう。
 二時……二時半……三時、やっと目は開いたが頭はぼんやりしている。自分が自分じゃないみたいだ。野球帽の男性はもういない。
 陽は傾きかけていた。まもなく夕方だ。
 とはいえ手術が終わるのは、まだ先のこと。
 初は決心したように重い腰を上げ、半日過ごした場所を出た。
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