第38話  歩きたい

文字数 1,751文字

 手術後の見舞いは、平日は乃津麻、週末は初が実家に泊まりながら行うつもりだった。そのことを確認しなくてはならない。
「ねえ、お母さん、明日も病院に行くよね?」
「あんた、私を殺す気? もう調子悪くて大変なのよ。首も背中も張って痛いし、疲れて疲れて……。こうして話しているのも辛いんだから」
「そっか。じゃ、お見舞いは無理かな?」
「……あちこち痛い、って言っているでしょ!」
 乃津麻はすでに爆発寸前だった。
 とはいえ間に受けて、「それでは私が病院に」とでも言おうものなら、大変なことになる。余計なことをするな、と電話を切られるだろう。
 とっさに嘘が出た。
「そうだ。明日ちょうど都内で打ち合わせがあるんだった。ついでにお父さんの病院、寄ってくるわ」
 実のところ、倅三の入院以来、初の生活はめちゃくちゃだ。家のことは放ったらかしで、仕事も全部断わっている。気ままな檀が夫でなければ、問題だっただろう。
 電話を終えると、天井がゆっくり回っていた。いつも音を立てるガラスのケースが静かだ。地震ではないらしい。
「疲れたなぁ」
 口に出す。だれかに話している気分になるのが不思議だ。
「休みたいなぁ」
 涙がわいてくる。
 どう考えても、自分が会いに行くしかない。顔を出せない日は電話で励まそう。そうすれば倅三の気も紛れるはずだ。
 そう決めるとちょっとだけ、気が晴れた。

 翌日、病院に着くと初はトイレに直行した。鏡の前で口角を上げ、何度も笑顔の練習をする。
 よし、と気合を入れて病室のドアを開ける。倅三は横になったまま、呆けたように窓の外を見ていた。
「お父さん、どう調子は?」
「初か。よく来たな。調子はまあまあだよ」
「部屋に虫がいるの? お母さんから聞いたけど。ほんとう?」
「そうなんだよ。壁に虫がびっしり張りついているよ。看護師さんが殺虫剤を吹きかけてやっつけようとするから、臭くて臭くて。かなわないよ」
「今もいる?」
「うん、ほら」
 と見たくもないように顎で壁を指す。そこにはなにもない真っ白い空間が広がっている。倅三の目には、虫が隙間なくうごめく壁なのだろう。
 そういえば一般病棟に移った日、初は乃津麻にこう連絡した。
「お父さんは間口が狭い、って不満そうだったよ。珍しいよね、文句を言うなんて」
「家を建てるときもこだわっていたから。風の出入りがどうとか、光の入り方がなんとか、いろいろ気にしていたわよ」
 家の普請が好きな父らしいエピソードだ、とそのときは感心した。狭いと感じるのは一種の閉所恐怖症ではないか、と思いあたったのはそのあとだ。だから病室の間口が気になるのだ。
 四人部屋の方がいいだろう。個室より広いから、苦しい感じが少ないはずだ。狭い空間に虫と一緒に閉じ込められていては、眠れないに違いない。
「観社さん、どんな感じですか。ちょっと、管を外しますね」
 そこに現れた白衣の女性は、ずいぶん小柄だった。雰囲気は大人びていて、そのアンバランスに魅力がある。
 彼女は倅三の体を起こすと、お腹から二本、背中から一本、あっという間に管を引き抜いた。手際のよさに思わず盗み見たIDカードには「医師」と「木香薇(こがら)」の文字が読めた。
「オシッコの管はあとで看護師に抜いてもらいましょう。今はこのままにしておきますね。血圧も落ち着いて、いい感じですよ」
 それだけ言うと、医師はもういなかった。
「鼻の管が取れてスッキリしたね、お父さん。気持ちいいでしょ? 今日からよく眠れるよ」
 倅三の顔はだいぶさっぱりした。そういえばベッド周りの機器も、日に日に簡素化されている。
「お父さん、桐鯛先生は回診に来るの? なにか聞いている?」
「来るよ、たいてい毎日。二、三日前だったか、そろそろ歩きましょう、って勧められた」
「それで、歩いている? 手術後はなるべく早く歩いたほうが回復する、って聞いたことがあるけれど」
「まだなんだよなぁ。オレも早く歩きたいよ」
 痛み止めの点滴をはじめ、倅三の体には管が幾本かぶら下がっていた。付き添って歩かせたいが管が邪魔だ。
 木香薇医師が言った看護師は来る気配がなかった。倅三には一日も早く歩いてもらいたい。
 そうした強い思いから、オシッコの管だけでも外してもらおうと、初は険しい顔でナースステーションに向かった。
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