第50話  おべっか

文字数 1,704文字

 今駄という名には聞きおぼえがあった。手術の二日前、入院時のオリエンテーションで、輸血と身体拘束の説明をした青年である。二十五歳というなら、新米か医者のたまごぐらいだろう。
 手術の執刀医はだれか、とあのときたずねると、さらりと言った。
「心配ありませんよ。僕みたいなのと違って皆さんベテランですから」
 謙遜のつもりか、自分には問題がある、とも取れる言い方だった。軽薄な発言を不愉快に感じたものだが、表現がこなれていないのは、社会経験が少ないせいもあるのだろう。
 とはいえ今駄がそこまで言い返したとなると、乃津麻はかなり挑発的だったに違いない。
「その医者ね、『観社さんはがんですよ、検査の結果は出ていますから』って言うのよ。『もうわかったんですか?』って聞いたら、『全部ではないけど、出てきた結果もある』って」
 がんの告知は、主治医を差し置いてついでに漏らすことではない。しかし、やっぱりがんなんだ、と初の中で衝撃と納得がわき起こった。
 がんの結果が出ている、と言われたあたりでさすがの乃津麻も冷静になったようだ。
「今駄先生、食べられなくなる可能性があるなら、なんで言ってくださらなかったの?」
「僕の言葉が足りませんでした。これからは気をつけます」
 そう謝罪を引き出し、手打ちとした。これが乃津麻のクレームの一部始終だった。
「ねぇ、初。その医者、なんて言ったと思う?」
「なんてって、なにが?」
 乃津麻は電話の向こうで、意味ありげにひと息ついた。
「あのね、『あなたは観社さんのお嬢さんですか』っておべっか使うの。冗談はよしこさんよね」
 初は耳を疑い、言葉に詰まる。
 倅三は年相応の容姿で、乃津麻は年齢より若く見える。だが親子と言われるほどではない。乃津麻が倅三の娘なら初の姉になるはずだが、二人が姉妹に間違えられたことは一度もなかった。
 呆れてものが言えないとはこのことだ。いくらなんでも今駄医師が、ここまでレベルの低いたわごとを言うとは、到底信じられない。
 百歩譲って事実だとしても、乃津麻は非常時にまで、「あなたはかわいいと人に言われたい」と思っているのだろう。そうでなければこんな悪い冗談は、引き寄せるはずがなかった。
 初がさらに気色悪いと感じるのは、そう言われた乃津麻が、満更でもない様子だった。
「お父さんはそのとき、どうしていたの? ちゃんと回復するかわからないとか、病気はがんだ、ってその医者が口走ったとき」
「ベッドに横になってぼーっとしていたわよ。そりゃそうでしょ、具合が悪いんだから。どうせ聞こえていないけれど」
 配慮のない発言にさらされ、倅三がショックを受けていないことを祈るばかりである。
 電話を切っても、乃津麻と今駄医師のやりとりが頭から離れず、得意げな母の様子が目に浮かんだ。
 初は明け方まで、布団の中で寝返りばかり打っていた。


 目覚めは最悪だった。
 乃津麻はなぜ病院で、しかも倅三の前で、医者とみっともなくもめるのか。なぜきちんと振る舞えないのか。
 そんな話を振ろうものなら、逆ギレされるのはわかっていた。しかしそう簡単に、流すこともできそうにもない。
 初は乃津麻としばらく関わりを持ちたくなかったが、連絡しなくてはならないことがあった。
 こんな話を持ちかけたらどんな反応を見せるか? 罵倒されても傷つかないよう心を閉ざし、スマホに手を伸ばす。電話が通じると、努めて明るい声を出した。
「お母さん、おはよう。気分はどう? 少しは元気になった?」
「昨日はひどかったわ。でも夜はよく眠れたから、疲れも取れたみたい」
 案外機嫌がよさそうだ。
 初は恐る恐る切り出した。
「あのね、お父さんのこと、よくわからないでしょ。だから桐鯛先生に面談を申し込もうと思うの。お母さんも来る?」
「なにを聞くの? え? 聞くことなんかないでしょ。昨日言ったわよね、どうなるかわかりませんって言われた、って」
「でも私は直接聞いていないから。もう一回ちゃんと話を聞いたほうがいいと思うのだけれど」
「もういい加減にしてよね! どこまで首を突っ込んでくるの。そっとしておいて!」
 怒鳴り終わったときにはもう、電話は切れていた。
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