第46話  完食

文字数 1,632文字

 栄養剤を受け取り、薬局を出たのは五時半だった。
 家の前でタクシーを降りる。香ばしい匂いは乃津麻の料理だろう。
「ただいま。お母さん、お肉を焼いているの?」
「そう、スーパーで売っていたチキンのハーブ漬け」
「お父さんがラーメン食べたいって言っているよ、って電話したよね? 夜はラーメン屋に行こう、って話したはずだけれど」
「で、どうだったのよ」
 初の問いには答えず、喧嘩腰にカウンターからぬっと突き出した顔は般若のようである。
 初は手元に鏡がないことを悔やんだ。どんな顔で娘をにらんでいるか。鏡を突きつけたら卒倒しかねない醜さだ。
 呆れた気持ちを押し殺し、感じよく努める。
「お父さんは少し脱水気味だってさ。点滴をしてもらったら元気になったよ。消化機能が回復するのに二、三カ月はかかるらしいね。だから焦らないように、って言われた。お母さんも安心して」
 乃津麻は般若顔のまま、しばらく黙ってからこう言った。
「私はラーメン屋なんか興味ないから、二人で行ってきなさい。ラーメンなんか食べたくないし」
「ラーメンのほかにもいろいろあるよ。野菜炒めとか中華丼とか。お母さんが好きなものもあるだろう」
 待ちかねたラーメンの話になり、倅三も熱心に誘うが、乃津麻は口を開かなかった。
 これだけ言ってこの態度なら、乃津麻は行かないのだ。
 問題は、一日中ラーメンを楽しみにしていた倅三をどうするかだ。病院で順番を待つ間も、倅三はうわごとのようにこう繰り返した。
「半分か三分の一か、どれだけ食べられるかわからない。とにかく行ってみよう」
 今ごろはおそらく、ラーメンを待ち受ける口になっているだろう。
 父をとるか、母をとるか。
 乃津麻を家に残すのは気が引けたが、初は倅三と二人だけで家を出た。
 途中、ドラッグストアをはしごして、栄養補助食品を見つくろう。店により品ぞろえが違ったが、倅三は案外面白がってあれこれ買っだ。

 駅前の倅三お目当ての店には先客がいた。スーツ姿のサラリーマン風の男が、スマホ片手にラーメンをすすっている。その隣のテーブルに向かうと、倅三はメニューも見ずに声を挙げた。
「とんこつラーメン!」
 気合十分だ。
 お昼を食べ損ねたが、初には食欲がなかった。ご飯ものは重く、ラーメンの気分でもない。正直なところ、なにも食べたくない。
 後から入店した女性客の元に、冷やし中華が運ばれた。あれにしよう、と心が動くが、冷たいものはお腹を冷やしそうだ。
「じゃ、いいや、中華丼で」
「それだけか? なにか飲んだらどうだ? 枝豆でも頼むか?」
 しきりと気遣う倅三に気遣い、チューハイを氷少なめで追加する。
 間もなくラーメンが運ばれた。
「小さなお椀ちょうだい」
 倅三は張りのある声で頼んでから、目の前に置かれたラーメンどんぶりに目を向ける。顔を近づけ、香りを胸いっぱいに吸い、箸をとった。
「どれだけ食べられるかなぁ」
 麺を見つめてひとりごつ。どんぶりから麺を箸に引っかけ、勢いよくすする。
 ひと噛み、ふた噛み……。
 ぱぁっと顔が明るくなった。
「うん、来たかいがあったよ」
「よかったね、お父さん。ゆっくり噛んでね」
「そう、ゆっくりな」
 倅三は麺を箸でつまみ、口に運ぶ。規則的な動作を熱心に繰り返している。
 いつもより慎重だが、小気味よい音を立て豪快に麺をすするさまは、いつもと変わりない。
 麺はついになくなった。小さなお椀はきれいなままだ。
「期待していたとおりの味だった」
 最後にもう一度、名残惜しげにスープをちょこっと口にする。飲み干すのはやりすぎだ、と思っているようだ。
「うまかった」
 倅三は決然と箸を置いた。
「ゆっくり食べなさい、初。なにも慌てることはないよ」
 ラーメン完食の大事業を終えた倅三の目はキラキラしている。
 初は食べたくもない中華丼を急いで口に押し込む。残せば倅三が心配するだろう。
「いやぁ、食べちゃったなぁ」
 喜びで目を輝かせる倅三は、満足げに楊枝で歯を突きながら、しきりとつぶやいた。
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