第42話 瀬名さん、暇ですみません
文字数 3,507文字
東京に戻ると数日は凄まじい雨が降りその後は打って変わって猛暑が続いている。
大学は夏休み中なので山見書店でのバイト時間を増やしはしたけれどもそれでも時間に余裕ありありだ。
瀬名さんは四日間の夏休みの後はまたビジネスホテルで三交代のシフトをこなしている。自分の彼女ながら本当に頭が下がる。
七月初旬の土曜の午後。
山見書店は基本、研究者向けの専門的(マイナー偏執的)学術書の輸入販売がメインなので実店舗も日・祝日は定休。土曜午前は実店舗の店番も兼ねて普段できない希少本のリスト作成等をやる時間だ。だから終わったら神保町に数多あるカレー屋さんでご飯を食べて午後からは優雅にカフェで読書でもしようかと思っていたところを、社員の野田さんに声をかけられた。
「気根くん、今日の午後、ヒマ?」
「え。特にどうしても、という予定はないですけど」
「ということはやりたいことはあったんだね」
「ええまあ。カレーでも食べようと思ってました」
「よし。カレー、プラス、割増アルバイト料で午後付き合ってくれないかい?」
「はい。あの、なんですか?」
「虫干 し」
・・・・・ということで神保町の裏通り、実店舗用のワゴンをテナントビルの軒先に並べて野田さん、同じく女子社員の黒石さん、僕の3人はコンビニのアイスコーヒーを飲みながら佇んでいた。
「暑いね」
「ほんとですねー。でも野田さん、本の虫干しなんて時代錯誤じゃないですか?」
「仕方ないだろう。ほんとに虫に食われちゃうんだから。ほら、これ」
野田さんが、触れると感染しそうな埃っぽいハードカバーの分厚い文献を開く。
「こことこことここ。コンマミリ単位の穴が紙にうねうねと開いてるだろ?」
「あ。ほんとですね」
「すべての国じゃないけど特定地域からの輸入本はほんとに注意しないといけないんだ。大学教授が場合によっては百万円単位出して買ってくれる文献の核心部分が、『××××』だったらクレームどころじゃ済まないだろう」
「確かに」
「特に船便は注意しないと。どれだけ現地エージェントに口すっぱく念押ししてもぞんざいにしか荷積みしてくれなかったりするから」
「あ。誰か来ましたよ」
暑い日差しの中すずらん通りの方から歩いて来たクールビズ姿の老紳士が本を並べたワゴンの前で止まった。
野田さんは何も言わず黙って眺めている。
黒石さんと僕もそれに習って黙っている。
「ほう・・・古本のワゴンセールですかな。ええと・・・」
一冊のペーパーバックを手に取る。
「ペンギンブックスですかな? 英語? なんの本ですか、これは?」
「それは『アジア全域の王朝と異教徒の政治学的関係性』について書かれた本です。英語ではなくヒンディー語です」
「それはまた難しそうな・・・」
「すみません、すごく埃っぽいですけど全部新刊本なんです。因みにお手に取っていただいたその本は五万円です」
「ほう! 貴重な本をうっかり触ってしまってすみませんな」
「いえこちらこそ。ご興味を持っていただいて嬉しいです」
「孫がこっちの大学に通っとるんで様子を見に来たんだがバイトだ何だと全然相手にしてもらえんでね。ひとりで名高い神田神保町の古書街を見物しに来たんですよ」
なんだか自分のことを言われてるみたいで少し申し訳なく思った。
「なんにせよやはりアカデミックな街だ。さすが東京ですな。いい土産話ができましたよ。ありがとう」
そう言って老紳士は古書店の並ぶ通りの方へ歩いて行った。
「暇ですねえ」
「うん暇だねえ」
「野田さん。ずっとここにいなくちゃいけないんですか?」
「はい。ここにいなくちゃいけない」
「あーあ。暇だし、暑いし・・・」
ジリジリと日差しがきつくなる。
太陽の動きに合わせてパイプ椅子の位置をずらし、少しでも涼しい位置へミリ単位で3人とも微調整を繰り返す。
「怪談でもしようか」
「ええ? いいですよ、野田さん。そんなベタな」
「黒石さん、ほんとは怖いんじゃ?」
「え、え? そ、そんなわけないじゃないですか」
「・・・やっぱり。あのねえ、刀剣美術館の刀が1本消えたって話でねえ」
「や、やめてください」
「一緒に展示してた鬼面 も消えたんだ。その鬼面って言うのがねえ」
「いいからやめてください!」
「そうだね。姦通罪で斬罪にされた女性の本当の毛を植え込んだ鬼面だった、なんて怖すぎるもんね」
「野田さん、全部言っちゃってますよ」
「ああ・・・今夜お風呂でシャンプーする時、目をつぶれない」
本気で怖がる黒石さんに、野田さんが慌てて何度も詫びていた。
それでも虫干しは続く。
普段はビルの陰に隠れて見えないけれども、今日の入道雲は巨大で、ちょっと見上げるだけでも視界に入る。
「アイスでも買ってきましょうか?」
僕がそう言うと野田さんが制止する。
「ちょっと待った。静かに!」
3人で息をひそめる。
ひゅう、っと涼しい風が一陣吹いて、更に耳をすますと、ゴゴゴ、という異音が聞こえた。
ぷっ、と僕の耳たぶあたりに水滴らしきものがひと粒触れた。
「そら来た! 急ぐよ!」
野田さんが合図すると同時に、ゴロゴロ、という音が空に響き、閃光が明るい夏空の日の光を上回る輝きを見せる。
「急いで急いで!」
野田さんと僕は、せいやっ!、と2人でワゴンを持ち上げ、外階段を駆け上る。黒石さんはバッグに本を詰め込めるだけ詰め込んで両肩にかけ、ふんぬっ!、と階段を二段飛ばしでダッシュする。
3人ともまるで中学あたりの部活トレーニングのような怒涛の運動量でもってすべての本を事務所に運び込んだ瞬間、
どざあ!
っと金 だらいをひっくり返したような雨が神保町に落っこちて来た。
黒石さんが一言、
「間一髪!」
「ほんとですね。だから僕も駆り出されたんですね」
「夏の夕立は予測がつかないからね。お陰でギリギリまで虫干しできたよ。2人ともありがとう」
野田さんからお礼を言われたところで事務所のガラス戸がガタッ、と音を立てた。
「あれ? 下に『CLOSED』の札出してたんだけどな」
誰か居るのはわかったのだけれども、その動きが止まった。
厚い雨雲でビルの中は暗い。
部分照明を灯した事務所内すら薄暗く感じる。
不思議だ。
凄まじい豪雨なのにその音は遠い街ののもののように静かで、逆に入り口に立つ誰かから落ちるのであろう液体のしずくのような音が異様にクリアに聞こえる。
僕らは暗黙の内に耳をすます。
ガラスなのに靄 がかかったようにシルエットすら視認できない。
ぼんやりした輪郭から、柄のような何か長いものを持っているという気がした。
ただ、それが棒状なのか、薄い形状のものなのか判別できない。
薄い場合は、鋭利な、という可能性が残る。
ひとつだけ。
その誰かの、髪が長い、ということだけは影でわかった。
僕らはただ、待った。
能動的に、ではない。
受動的に、選択肢がそれしかないだけだ。
「ああ・・・」
黒石さんが何かを区切るような声を出す。
区切りは様々な場面で訪れる。
忌み嫌われるのは生死の区切り。
それがこんな真夏の、まだ日照時間中の、都会の裏通りでひっそりと異世界の入り口のように現実になるとは。
僕も心の中で呻く
ああ・・・・
カッ
雷光でストロボのように浮かび上がったシルエットは、心づもりしていた通り、僕らの事務所の中に、ゆっくりと入ってきた
それがなんなのかを僕は、ようやく直に認識することができた
「・・・・・こんにちは」
「せ、瀬名さん?」
「よかったー・・・」
「え? え? なんなんですか、皆さん?」
長い髪の、長い傘を持った瀬名さんがぐしょぐしょで入り口に佇んでいる。
「あ、気根くん、拭いてあげて」
「は、はい」
野田さんから備品のタオルを受け取る。つい思わず野田さんの言葉通り瀬名さんを拭いてあげようとする僕。
瀬名さんがあわてる。
「あ、気根くん、大丈夫だから。自分で拭けるから」
「あ、すみません」
「わ。やってらんないわー」
まるで加藤さんのようなリアクションをする黒石さん。
恥ずかしいのでスルーして僕は瀬名さんに質問する。
「でも瀬名さん、どうしてここへ?」
「え・・・その、『虫干し』っていうのを一度見てみたくて・・・」
「え? 虫干しを?」
「ちょうど仕事上がりで間に合いそうだと思ったから。歩いてる途中でいきなり降ってきて。傘も全然役に立たなかったわ」
「虫干し見たいなんて、瀬名さんも変わってるねえ」
「うーん。気根くんと瀬名さんってやっぱりお似合いだわ」
野田さんと黒石さんのコメントに、僕も瀬名さんも反論できなかった。
野田さんが気を利かせてくれる。
「せっかくだからみんなで晩御飯食べに行くかい? 瀬名さんは何がいいですか?」
「あ。実は今晩はカレー、って思ってたんですけど」
「・・・やっぱりお似合いだわ」
夏って、なんだか楽しい。
大学は夏休み中なので山見書店でのバイト時間を増やしはしたけれどもそれでも時間に余裕ありありだ。
瀬名さんは四日間の夏休みの後はまたビジネスホテルで三交代のシフトをこなしている。自分の彼女ながら本当に頭が下がる。
七月初旬の土曜の午後。
山見書店は基本、研究者向けの専門的(マイナー偏執的)学術書の輸入販売がメインなので実店舗も日・祝日は定休。土曜午前は実店舗の店番も兼ねて普段できない希少本のリスト作成等をやる時間だ。だから終わったら神保町に数多あるカレー屋さんでご飯を食べて午後からは優雅にカフェで読書でもしようかと思っていたところを、社員の野田さんに声をかけられた。
「気根くん、今日の午後、ヒマ?」
「え。特にどうしても、という予定はないですけど」
「ということはやりたいことはあったんだね」
「ええまあ。カレーでも食べようと思ってました」
「よし。カレー、プラス、割増アルバイト料で午後付き合ってくれないかい?」
「はい。あの、なんですか?」
「
・・・・・ということで神保町の裏通り、実店舗用のワゴンをテナントビルの軒先に並べて野田さん、同じく女子社員の黒石さん、僕の3人はコンビニのアイスコーヒーを飲みながら佇んでいた。
「暑いね」
「ほんとですねー。でも野田さん、本の虫干しなんて時代錯誤じゃないですか?」
「仕方ないだろう。ほんとに虫に食われちゃうんだから。ほら、これ」
野田さんが、触れると感染しそうな埃っぽいハードカバーの分厚い文献を開く。
「こことこことここ。コンマミリ単位の穴が紙にうねうねと開いてるだろ?」
「あ。ほんとですね」
「すべての国じゃないけど特定地域からの輸入本はほんとに注意しないといけないんだ。大学教授が場合によっては百万円単位出して買ってくれる文献の核心部分が、『××××』だったらクレームどころじゃ済まないだろう」
「確かに」
「特に船便は注意しないと。どれだけ現地エージェントに口すっぱく念押ししてもぞんざいにしか荷積みしてくれなかったりするから」
「あ。誰か来ましたよ」
暑い日差しの中すずらん通りの方から歩いて来たクールビズ姿の老紳士が本を並べたワゴンの前で止まった。
野田さんは何も言わず黙って眺めている。
黒石さんと僕もそれに習って黙っている。
「ほう・・・古本のワゴンセールですかな。ええと・・・」
一冊のペーパーバックを手に取る。
「ペンギンブックスですかな? 英語? なんの本ですか、これは?」
「それは『アジア全域の王朝と異教徒の政治学的関係性』について書かれた本です。英語ではなくヒンディー語です」
「それはまた難しそうな・・・」
「すみません、すごく埃っぽいですけど全部新刊本なんです。因みにお手に取っていただいたその本は五万円です」
「ほう! 貴重な本をうっかり触ってしまってすみませんな」
「いえこちらこそ。ご興味を持っていただいて嬉しいです」
「孫がこっちの大学に通っとるんで様子を見に来たんだがバイトだ何だと全然相手にしてもらえんでね。ひとりで名高い神田神保町の古書街を見物しに来たんですよ」
なんだか自分のことを言われてるみたいで少し申し訳なく思った。
「なんにせよやはりアカデミックな街だ。さすが東京ですな。いい土産話ができましたよ。ありがとう」
そう言って老紳士は古書店の並ぶ通りの方へ歩いて行った。
「暇ですねえ」
「うん暇だねえ」
「野田さん。ずっとここにいなくちゃいけないんですか?」
「はい。ここにいなくちゃいけない」
「あーあ。暇だし、暑いし・・・」
ジリジリと日差しがきつくなる。
太陽の動きに合わせてパイプ椅子の位置をずらし、少しでも涼しい位置へミリ単位で3人とも微調整を繰り返す。
「怪談でもしようか」
「ええ? いいですよ、野田さん。そんなベタな」
「黒石さん、ほんとは怖いんじゃ?」
「え、え? そ、そんなわけないじゃないですか」
「・・・やっぱり。あのねえ、刀剣美術館の刀が1本消えたって話でねえ」
「や、やめてください」
「一緒に展示してた
「いいからやめてください!」
「そうだね。姦通罪で斬罪にされた女性の本当の毛を植え込んだ鬼面だった、なんて怖すぎるもんね」
「野田さん、全部言っちゃってますよ」
「ああ・・・今夜お風呂でシャンプーする時、目をつぶれない」
本気で怖がる黒石さんに、野田さんが慌てて何度も詫びていた。
それでも虫干しは続く。
普段はビルの陰に隠れて見えないけれども、今日の入道雲は巨大で、ちょっと見上げるだけでも視界に入る。
「アイスでも買ってきましょうか?」
僕がそう言うと野田さんが制止する。
「ちょっと待った。静かに!」
3人で息をひそめる。
ひゅう、っと涼しい風が一陣吹いて、更に耳をすますと、ゴゴゴ、という異音が聞こえた。
ぷっ、と僕の耳たぶあたりに水滴らしきものがひと粒触れた。
「そら来た! 急ぐよ!」
野田さんが合図すると同時に、ゴロゴロ、という音が空に響き、閃光が明るい夏空の日の光を上回る輝きを見せる。
「急いで急いで!」
野田さんと僕は、せいやっ!、と2人でワゴンを持ち上げ、外階段を駆け上る。黒石さんはバッグに本を詰め込めるだけ詰め込んで両肩にかけ、ふんぬっ!、と階段を二段飛ばしでダッシュする。
3人ともまるで中学あたりの部活トレーニングのような怒涛の運動量でもってすべての本を事務所に運び込んだ瞬間、
どざあ!
っと
黒石さんが一言、
「間一髪!」
「ほんとですね。だから僕も駆り出されたんですね」
「夏の夕立は予測がつかないからね。お陰でギリギリまで虫干しできたよ。2人ともありがとう」
野田さんからお礼を言われたところで事務所のガラス戸がガタッ、と音を立てた。
「あれ? 下に『CLOSED』の札出してたんだけどな」
誰か居るのはわかったのだけれども、その動きが止まった。
厚い雨雲でビルの中は暗い。
部分照明を灯した事務所内すら薄暗く感じる。
不思議だ。
凄まじい豪雨なのにその音は遠い街ののもののように静かで、逆に入り口に立つ誰かから落ちるのであろう液体のしずくのような音が異様にクリアに聞こえる。
僕らは暗黙の内に耳をすます。
ガラスなのに
ぼんやりした輪郭から、柄のような何か長いものを持っているという気がした。
ただ、それが棒状なのか、薄い形状のものなのか判別できない。
薄い場合は、鋭利な、という可能性が残る。
ひとつだけ。
その誰かの、髪が長い、ということだけは影でわかった。
僕らはただ、待った。
能動的に、ではない。
受動的に、選択肢がそれしかないだけだ。
「ああ・・・」
黒石さんが何かを区切るような声を出す。
区切りは様々な場面で訪れる。
忌み嫌われるのは生死の区切り。
それがこんな真夏の、まだ日照時間中の、都会の裏通りでひっそりと異世界の入り口のように現実になるとは。
僕も心の中で呻く
ああ・・・・
カッ
雷光でストロボのように浮かび上がったシルエットは、心づもりしていた通り、僕らの事務所の中に、ゆっくりと入ってきた
それがなんなのかを僕は、ようやく直に認識することができた
「・・・・・こんにちは」
「せ、瀬名さん?」
「よかったー・・・」
「え? え? なんなんですか、皆さん?」
長い髪の、長い傘を持った瀬名さんがぐしょぐしょで入り口に佇んでいる。
「あ、気根くん、拭いてあげて」
「は、はい」
野田さんから備品のタオルを受け取る。つい思わず野田さんの言葉通り瀬名さんを拭いてあげようとする僕。
瀬名さんがあわてる。
「あ、気根くん、大丈夫だから。自分で拭けるから」
「あ、すみません」
「わ。やってらんないわー」
まるで加藤さんのようなリアクションをする黒石さん。
恥ずかしいのでスルーして僕は瀬名さんに質問する。
「でも瀬名さん、どうしてここへ?」
「え・・・その、『虫干し』っていうのを一度見てみたくて・・・」
「え? 虫干しを?」
「ちょうど仕事上がりで間に合いそうだと思ったから。歩いてる途中でいきなり降ってきて。傘も全然役に立たなかったわ」
「虫干し見たいなんて、瀬名さんも変わってるねえ」
「うーん。気根くんと瀬名さんってやっぱりお似合いだわ」
野田さんと黒石さんのコメントに、僕も瀬名さんも反論できなかった。
野田さんが気を利かせてくれる。
「せっかくだからみんなで晩御飯食べに行くかい? 瀬名さんは何がいいですか?」
「あ。実は今晩はカレー、って思ってたんですけど」
「・・・やっぱりお似合いだわ」
夏って、なんだか楽しい。