第58話 瀬名さん、あともうほんの少しですから
文字数 3,362文字
最初から分かっていたことではあったけれども、決断し・周囲に表明してからが僕と瀬名さんの正念場だった。
学生を1人減らす立場となる僕の大学で協力的なのは酒田教授だけ。
後は先生たちにしても学生課の職員さんたちにしても、妨害するわけはないけれども、積極的に支援するというスタンスではなかった。いなくなる学生のために必要以上の時間や手間をかけようとする人はまずいない。
それは瀬名さんの職場も同じだった。
いや。
瀬名さんは社会人としてお金が常に関わる立場にいるのだから、僕よりも遥かに辛い思いをしているだろう。
・・・・・
「気根くん、給料20%減だって」
「そうですか・・・」
仕事する瀬名さんの負担を減らすために大塚の瀬名さんの部屋で過ごすことがぼくたちは増えた。それにもはや僕たちの財布は完全に一つになったと考えるべきで、外食も極力控えて瀬名さんが作ったものをふたりで食べることが多い。
そして、僕の病気の瀬名さんへの感染予防の対策はこれからなので、ふたりのスキンシップも進展のしようがなかった。
「気根くん。結局わたしは今の会社の社員でいることはできないみたい。気根くんの街にある子会社の社員に転籍、って取り扱い。それでね、業務の内容なんだけどね」
「はい」
「とりあえずは系列ホテルのスタッフとして働くけれども、子会社は他にも事業部門があってね。例えば介護とか」
「介護、ですか」
「それから、警備とか」
「警備・・・」
「同じ警備でもね、ビルサービスの一部門だからテナントの清掃スタッフの仕事をする可能性もあるって」
「うーん」
「わたしは特にこだわりはないんだけど」
「でも、瀬名さんはホテルの仕事が好きになってきてたんでしょう?」
「うん。でも、もしホテル以外の仕事になってもローテーションでまた戻る可能性もあるし、それに一番の目的は、気根くんの地元に一緒に行くことだから」
「瀬名さん・・・今更ですけれども、本当にそれでいいんですか?」
「気根くん」
「はい」
「兄みたいにわたしの許しを貰おうとするようなことはやめて。気根くんが一言、『一緒に来てくれ』って言うだけでいいの」
「はい・・・瀬名さん」
「はい」
「僕と一緒に来てください。もう一踏ん張りしましょう」
「はい」
・・・・・・・・
お馴染みの仲間たちと会う機会もほとんどなくなった。
女子寮メンバーたちも送別会で言っていた通り、就職活動やそれぞれの研究と、将来に向かって忙しく動いている。毎晩の酒盛りも夏休み明け以降一気に減ったらしい。
作田は作田で毎週末に実家に帰省して親父さんのコンビニを手伝っている。どうやら収支が今ひとつで、極力家族でシフトを回し、アルバイトの人件費を削らないとやっていけないようだ。
山見書店も黒石さんが地方大学への営業攻勢をかけているし、より競争力のある書籍を仕入れるために野田さんは劣悪な環境の国へも出張してルート拡大に飛び回っている。僕のバイトも不定期で、里見さんと社長が事務全般と都内大学への御用聞きをやっている状態だ。
御茶ノ水の瀬名さんのホテルも、いなくなる瀬名さんの穴を前提にシフトを組み、なかなかに過酷な労働状況らしい。人手不足の中、後任も決まらず、瀬名さんは同僚や先輩方に申し訳ない気持ちを抱えて仕事している。
瀬名さんも単身で僕の地元の子会社に何度も出張し研修や短期出向扱いでの手伝いも始めている。
あと、出張時の寝泊まりは僕の実家でし、『舅・姑候補』と同居訓練も始めている。
そんな時、母親から電話があった。
『麗人 、瀬名さん、体大丈夫なのかい?』
「何か調子悪そうだった?」
『ええ。まあ鬼姑と一緒だから気を張って余計に疲れるのかもしれないけど、先週泊まった時なんか台所で洗い物してるときに肩で息するみたいな感じでさ』
「あ。家事とかさせないで労 ってあげてよ」
『疲れてるだろうからいいって言うんだけど、料理したりしてる方が気持ちが落ち着くって言うから・・・実際私が作るより美味しいからついね』
母親の冗談はさておき瀬名さんはこういうイレギュラーな出張から東京に戻っても当たり前のようにホテルの三交代に入る。もちろん、労働基準法の範囲内ではあるけれども、生身の人間の問題だ。このままだと病気である僕よりも先に瀬名さんが参ってしまう。
・・・・・・・
僕は久し振りに瀬名さんを外食に誘った。
ほんとは以前神田で食べたうなぎなんかが滋養にはいいんだろうけど、金銭的に今は無理だ。
初心忘るべからず。
大学の最寄り駅近く、暴力団事務所の前にあるファミレスで待ち合わせた。
「懐かしいわね、ここ」
「ええ。何にします」
「ふふ。ベーコン敷 温玉乗せハンバーグ。ライス大盛りで」
「おー。さすが社会人、大盛りとは豪勢ですね」
「気根くんは?」
「僕は同じでパンで。ドリンクバーは?」
「もちろんつけるわ」
1人千数百円ぐらい。
ぼくたちが出会ってまだすぐの頃、瀬名さんは同じメニューを奢ってくれたんだった。瀬名さんがネット投稿楽曲オーディションもどきでゲットしたお車代を使って。
「なんだか、学生に戻った気分だわ」
「瀬名さん」
「うん」
「前僕が言ったこともう一度考えてみませんか」
「なんだったかしら」
「大学に通い直すこと」
「・・・わたしが?」
「ええ」
「必要ないわ。今も答えは変わらない」
「でも、このままじゃ瀬名さんが体をこわしちゃいます。とにかく一旦仕事を完全にやめてとりあえず地元に一緒に行って。瀬名さん自身も少し休んでから仕事なり場合によったら僕の入る大学に社会人枠で入ったり」
「お金はどうするの?」
「情けないですけど、僕が卒業して就職決まるまでは親の脛を齧ろうかと。もちろん、体と相談しながらバイトは何かするつもりですけど」
「無理よ」
「瀬名さん。すごい嫌らしい言い方ですけど、この間預金額見せてくれたじゃないですか。本当によく頑張ったと思います。いざとなったらそれもあるじゃないですか」
「気根くん、ごめんね」
突然瀬名さんが顔面蒼白になって俯いた。
「そんな、瀬名さんがどうして謝るんですか。不甲斐ないのは僕の方です」
「そうじゃないの。わたしね」
瀬名さんが、目にじわりと涙を浮かべた。そして、それをこらえることなくこぼした。
会って以来、初めてのことだ。
「わたし、まだ両親に仕送り続けてるの」
「え。確かご両親はおふたりともなんとか自活できるようになったって」
「嘘なのよ」
ショックではあった。
なぜなら僕の実家の父親・母親も瀬名さんのご両親がなんとか暮らしていける目処がついているなら安心だということで転学や僕たちが実家の家で結婚前から一緒に暮らすことを許してくれた経緯があったからだ。
「ごめんなさい。多分わたしがすっぱりと支援をやめれば母親は否が応でも自活しようとするわ。でも、父親は、無理なのよ。生活保護っていう方法はあるだろうけど、でも、でも・・・」
「分かりました。瀬名さんは仕事を続けてください。ご両親の生活のことはこれから一緒に考えましょう。その代わり・・・」
僕は席を立った。
そして、つかつかと歩く。
僕は、瀬名さんの座席の隣に座った。
彼女の頭のてっぺんあたりをよしよしするように何度も撫でてあげる。
「瀬名さん。僕の街へ行く手続きが全部終わるまで後2ヶ月。東京でも一緒に暮らしましょう」
「えっ・・・」
涙声のまま瀬名さんは僕の顔を見る。
「僕が瀬名さんの部屋から大学に通いますよ。ご飯も僕が作ります。味は我慢してもらいますけど」
「でも・・・」
「それから、瀬名さんが仕事から帰ったら毎日マッサージしてあげます。ほお骨とか耳裏とか。あと足裏も。僕、ばあちゃんに頼まれてよくやってたから上手いですよ」
「・・・わたしもおばあちゃんによくやってあげてたわ」
「瀬名さん、おんなじですね」
「でも、気根くんだって病気ですごく疲れてるのに・・・」
「じゃあ、瀬名さんの疲れが取れたら僕をマッサージしてください。それで僕の疲れが取れたらまたマッサージしてあげます」
涙を拭かないまま、瀬名さんがにこっと笑った。
疲れを溶かすマッサージ。
それは淡白な僕と瀬名さんのプラトニックな愛撫。
そのあと、瀬名さんはドリンクバーでけたたましい音を立てて何度もカプチーノをお代わりした。
そして、漫画や音楽の話をしながら笑い合った。
まだふたりとも大学生だったあの頃のように。
学生を1人減らす立場となる僕の大学で協力的なのは酒田教授だけ。
後は先生たちにしても学生課の職員さんたちにしても、妨害するわけはないけれども、積極的に支援するというスタンスではなかった。いなくなる学生のために必要以上の時間や手間をかけようとする人はまずいない。
それは瀬名さんの職場も同じだった。
いや。
瀬名さんは社会人としてお金が常に関わる立場にいるのだから、僕よりも遥かに辛い思いをしているだろう。
・・・・・
「気根くん、給料20%減だって」
「そうですか・・・」
仕事する瀬名さんの負担を減らすために大塚の瀬名さんの部屋で過ごすことがぼくたちは増えた。それにもはや僕たちの財布は完全に一つになったと考えるべきで、外食も極力控えて瀬名さんが作ったものをふたりで食べることが多い。
そして、僕の病気の瀬名さんへの感染予防の対策はこれからなので、ふたりのスキンシップも進展のしようがなかった。
「気根くん。結局わたしは今の会社の社員でいることはできないみたい。気根くんの街にある子会社の社員に転籍、って取り扱い。それでね、業務の内容なんだけどね」
「はい」
「とりあえずは系列ホテルのスタッフとして働くけれども、子会社は他にも事業部門があってね。例えば介護とか」
「介護、ですか」
「それから、警備とか」
「警備・・・」
「同じ警備でもね、ビルサービスの一部門だからテナントの清掃スタッフの仕事をする可能性もあるって」
「うーん」
「わたしは特にこだわりはないんだけど」
「でも、瀬名さんはホテルの仕事が好きになってきてたんでしょう?」
「うん。でも、もしホテル以外の仕事になってもローテーションでまた戻る可能性もあるし、それに一番の目的は、気根くんの地元に一緒に行くことだから」
「瀬名さん・・・今更ですけれども、本当にそれでいいんですか?」
「気根くん」
「はい」
「兄みたいにわたしの許しを貰おうとするようなことはやめて。気根くんが一言、『一緒に来てくれ』って言うだけでいいの」
「はい・・・瀬名さん」
「はい」
「僕と一緒に来てください。もう一踏ん張りしましょう」
「はい」
・・・・・・・・
お馴染みの仲間たちと会う機会もほとんどなくなった。
女子寮メンバーたちも送別会で言っていた通り、就職活動やそれぞれの研究と、将来に向かって忙しく動いている。毎晩の酒盛りも夏休み明け以降一気に減ったらしい。
作田は作田で毎週末に実家に帰省して親父さんのコンビニを手伝っている。どうやら収支が今ひとつで、極力家族でシフトを回し、アルバイトの人件費を削らないとやっていけないようだ。
山見書店も黒石さんが地方大学への営業攻勢をかけているし、より競争力のある書籍を仕入れるために野田さんは劣悪な環境の国へも出張してルート拡大に飛び回っている。僕のバイトも不定期で、里見さんと社長が事務全般と都内大学への御用聞きをやっている状態だ。
御茶ノ水の瀬名さんのホテルも、いなくなる瀬名さんの穴を前提にシフトを組み、なかなかに過酷な労働状況らしい。人手不足の中、後任も決まらず、瀬名さんは同僚や先輩方に申し訳ない気持ちを抱えて仕事している。
瀬名さんも単身で僕の地元の子会社に何度も出張し研修や短期出向扱いでの手伝いも始めている。
あと、出張時の寝泊まりは僕の実家でし、『舅・姑候補』と同居訓練も始めている。
そんな時、母親から電話があった。
『
「何か調子悪そうだった?」
『ええ。まあ鬼姑と一緒だから気を張って余計に疲れるのかもしれないけど、先週泊まった時なんか台所で洗い物してるときに肩で息するみたいな感じでさ』
「あ。家事とかさせないで
『疲れてるだろうからいいって言うんだけど、料理したりしてる方が気持ちが落ち着くって言うから・・・実際私が作るより美味しいからついね』
母親の冗談はさておき瀬名さんはこういうイレギュラーな出張から東京に戻っても当たり前のようにホテルの三交代に入る。もちろん、労働基準法の範囲内ではあるけれども、生身の人間の問題だ。このままだと病気である僕よりも先に瀬名さんが参ってしまう。
・・・・・・・
僕は久し振りに瀬名さんを外食に誘った。
ほんとは以前神田で食べたうなぎなんかが滋養にはいいんだろうけど、金銭的に今は無理だ。
初心忘るべからず。
大学の最寄り駅近く、暴力団事務所の前にあるファミレスで待ち合わせた。
「懐かしいわね、ここ」
「ええ。何にします」
「ふふ。ベーコン
「おー。さすが社会人、大盛りとは豪勢ですね」
「気根くんは?」
「僕は同じでパンで。ドリンクバーは?」
「もちろんつけるわ」
1人千数百円ぐらい。
ぼくたちが出会ってまだすぐの頃、瀬名さんは同じメニューを奢ってくれたんだった。瀬名さんがネット投稿楽曲オーディションもどきでゲットしたお車代を使って。
「なんだか、学生に戻った気分だわ」
「瀬名さん」
「うん」
「前僕が言ったこともう一度考えてみませんか」
「なんだったかしら」
「大学に通い直すこと」
「・・・わたしが?」
「ええ」
「必要ないわ。今も答えは変わらない」
「でも、このままじゃ瀬名さんが体をこわしちゃいます。とにかく一旦仕事を完全にやめてとりあえず地元に一緒に行って。瀬名さん自身も少し休んでから仕事なり場合によったら僕の入る大学に社会人枠で入ったり」
「お金はどうするの?」
「情けないですけど、僕が卒業して就職決まるまでは親の脛を齧ろうかと。もちろん、体と相談しながらバイトは何かするつもりですけど」
「無理よ」
「瀬名さん。すごい嫌らしい言い方ですけど、この間預金額見せてくれたじゃないですか。本当によく頑張ったと思います。いざとなったらそれもあるじゃないですか」
「気根くん、ごめんね」
突然瀬名さんが顔面蒼白になって俯いた。
「そんな、瀬名さんがどうして謝るんですか。不甲斐ないのは僕の方です」
「そうじゃないの。わたしね」
瀬名さんが、目にじわりと涙を浮かべた。そして、それをこらえることなくこぼした。
会って以来、初めてのことだ。
「わたし、まだ両親に仕送り続けてるの」
「え。確かご両親はおふたりともなんとか自活できるようになったって」
「嘘なのよ」
ショックではあった。
なぜなら僕の実家の父親・母親も瀬名さんのご両親がなんとか暮らしていける目処がついているなら安心だということで転学や僕たちが実家の家で結婚前から一緒に暮らすことを許してくれた経緯があったからだ。
「ごめんなさい。多分わたしがすっぱりと支援をやめれば母親は否が応でも自活しようとするわ。でも、父親は、無理なのよ。生活保護っていう方法はあるだろうけど、でも、でも・・・」
「分かりました。瀬名さんは仕事を続けてください。ご両親の生活のことはこれから一緒に考えましょう。その代わり・・・」
僕は席を立った。
そして、つかつかと歩く。
僕は、瀬名さんの座席の隣に座った。
彼女の頭のてっぺんあたりをよしよしするように何度も撫でてあげる。
「瀬名さん。僕の街へ行く手続きが全部終わるまで後2ヶ月。東京でも一緒に暮らしましょう」
「えっ・・・」
涙声のまま瀬名さんは僕の顔を見る。
「僕が瀬名さんの部屋から大学に通いますよ。ご飯も僕が作ります。味は我慢してもらいますけど」
「でも・・・」
「それから、瀬名さんが仕事から帰ったら毎日マッサージしてあげます。ほお骨とか耳裏とか。あと足裏も。僕、ばあちゃんに頼まれてよくやってたから上手いですよ」
「・・・わたしもおばあちゃんによくやってあげてたわ」
「瀬名さん、おんなじですね」
「でも、気根くんだって病気ですごく疲れてるのに・・・」
「じゃあ、瀬名さんの疲れが取れたら僕をマッサージしてください。それで僕の疲れが取れたらまたマッサージしてあげます」
涙を拭かないまま、瀬名さんがにこっと笑った。
疲れを溶かすマッサージ。
それは淡白な僕と瀬名さんのプラトニックな愛撫。
そのあと、瀬名さんはドリンクバーでけたたましい音を立てて何度もカプチーノをお代わりした。
そして、漫画や音楽の話をしながら笑い合った。
まだふたりとも大学生だったあの頃のように。