第17話 瀬名さん、ノリノリですね
文字数 2,848文字
「気根くん、コンサートのチケットが2枚あるんだけど、行かない?」
こういうシチュエーションがドラマやアニメの中以外に起こるということを想定していなかった。
僕は端的に訊き返した。
「誰のコンサートですか?」
それに対する瀬名さんの答え。
「サイケデリック・フィル・ハーモニー」
・・・・・・・・
池袋西口にあるとても美しいコンサートホール。
少し雑然とした、もっと踏み込んで言うと地方から上京した僕がアブない街だと思っていた池袋も、とても整然とした住みやすい街というのが今のイメージらしい。
「瀬名さん、クラシックが好きなんですか?」
「うーん。ロックっぽいヤツなら好き」
「ロックっぽいクラシック? 例えば?」
「ベートーヴェンの、『ジャジャジャジャーン』とか、ロックだよね」
「ああ・・・なるほど。でも、とことん趣味の合わない僕と瀬名さんが一緒にコンサート行くことになるとは思いませんでしたよ」
「わたしも別に趣味じゃないけど、このホールに一度は来てみたかったから」
瀬名さんは今日は非番。
『非番』なんてかっこいい休みの言い方、三交代ならではの特権だ。
その瀬名さんの職場であるビジネスホテルのチェーン本部は優良店舗の表彰制度を取っている。売り上げ計画達成率の定数面と、顧客サービスの定性面を基準に表彰し金一封を授与するらしい。
瀬名さんの店舗は昨年度下期の表彰を受けた。来日した時にはいつも瀬名さんのホテルを定宿にしているこのドイツのオーケストラのチケットが副賞として全従業員に配られたのだ。
そして瀬名さんはうきうきと、僕はのこのこと、18時開演のこの『サイケデリック・フィル・ハーモニー』のコンサート会場にやってきたわけだ。
「あれ? コンサートって子供も来ていいんですか?」
開演前のロビー。
目立つのは小さな子供を連れた若い夫婦の組み合わせだった。
中には妊婦さんもいる。
「気根くん。このオーケストラはね、老若男女誰にでもクラシックを楽しんでもらいたいというのがポリシーなの。だから子連れでもOKなのよ。会場が多少ざわつくのもあり」
「へー。でも、静かに演奏を聴きたい人もいるでしょう?」
「うん。だからこのオーケストラのお客さんは世界中どこでも初心者が多くはなっちゃうみたいね」
「でも、子供が泣いたりしたら演奏が聴こえないんじゃないですか」
「気根くん。大丈夫らしいよ」
「え。どうしてですか?」
「音がハンパなく大きいらしいの」
・・・・・・・
座席に着いて待っていると徐々に会場が暗くなる。
それと反比例してステージ上の灯りが万度になった。
「え・え。なんですか、あれ?」
僕はその光景を観てつい声に出してしまった。
ステージ上の人種様々50人編成のオーケストラのメンバー全員の服装が。
カジュアル、なんてものじゃない。
Tシャツにジーンズ、スニーカー、ポロシャツ、ワンピース、タンクトップ。
そして最後に舞台に歩み出て来たまだ若い男の指揮者のルックスがトドメを刺した。
「モーニン!」
一言客席に怒鳴るや、サングラスをかけたアフロヘアーを振り乱してナイキのシューズでステップを踏む。そのままオーケストラへ振り向く刹那に見えたTシャツの柄は瀬名さんがいつもシックな服の中に着込んでいるサイケなパンクバンドのそれのようだった。
指揮者は、「ディックス」というニックネームらしい。本名については解説も何もパンフレットにはない。
彼はオーケストラに向き合う慣性でもってタクトを振りかぶり、プロ野球のストッパーの全力投球のように振り降ろした。
ズガン!
そもそもクラシックだろうがロックだろうがコンサートというもの自体これが初めてだけれども、この第一音が常識はずれだということは素人の僕にも分かった。
鼓膜が、がさっ、と音を立てて揺れたかと思った。
そのまま生の音が観客に否応なくぶつけられる。
瀬名さんが僕の隣で口をパクパクしている。
「え?」
「・・・・で、・・・・ね」
「え? え?」
「だから、・・・・で、・・・・ね」
「何々⁈」
「だ・か・ら、全然老若男女向けじゃないね!」
瀬名さんの言葉が聞き取れた時、僕も同感した。
だって、この一曲目はいわゆる「現代音楽」と呼ばれる不協和音の集合体で、ホラー映画のサウンド・トラックではないかと思ったぐらいだ。
しかも多分、クラシックという枠組みを度外視したばかでかい音。
泣き出している子供までいる。
そして、視力のいい僕はステージでヴァイオリンを弾いている女性の弦のあたりにキラキラしたものが飛び散っているのが目に入った。
「なんだろ、あれ?」
「松ヤニよ」
どうやら弦がしっかり音を出すために使うらしい。
けれども、あんなに大量に飛び散るものなのだろうか。
なぜか英国旗がプリントされたTシャツを着ている若いヴァイオリニストの女性は、渾身の力で松ヤニを引っ掻くために演奏しているようにしか見えない。
クラシックに疎い僕は次々と進むセットリストの曲が一体誰のなんという曲か全くわからなかった。おそらく僕も悪いのだけれども、それ以上にこのオーケストラはマニアックな選曲ばかりしているのではないかという疑念が消えなかった。
かと思うと、
「わ。レトロだ」
と幼稚園ぐらいの子たちが騒ぎ出した。
「斜向かいのレトロ」というアニメのテーマ曲でコンサート前半の締めくくりだった。
僕の脳裏に浮かんだのは、
『無節操』
の三文字のみだった。
・・・・・・・
休憩時間にロビーで瀬名さんとコーヒーを飲んでいると、ジャケットやスーツを着た男女が僕たちの所に近づいて来た。
「おー、瀬名さんじゃない」
「あ、皆さんもいらしてたんですか」
どうやら瀬名さんのホテルの同僚の皆さんのようだ。
瀬名さんが双方を紹介してくれた。
一番先輩ぽい男性が僕に訊いてきた。
「気根さんは女性を見る目がありますね。瀬名さんを選ぶなんて」
瀬名さんはいえいえいえ、と手を振って否定し、僕はいやー、と頭を搔く。
その男性が続けた。
「正直拷問みたいなコンサートだね。僕が今まで聴いたどのロックバンドよりもでっかい音だよ」
「でも・・・音が大きいということは演奏の基礎的な力があるってことですよね」
あれ?
瀬名さんがやたらポジティブな評価をしてる。
「瀬名さん、気根さん。よかったら後半はパスして僕らと飲みに行かないかい?」
その問いかけを聞きながら、僕は瀬名さんの足元を見た。
そして僕は答えた。
「いえ。せっかくなので最後まで聴いていきます」
「そうだね。デートをお邪魔するのも申し訳ないし。じゃ、お二人ともごゆっくり」
「すみません、皆さん」
彼らを見送ってからもう一度僕は瀬名さんの足元を見た。
スニーカーのつま先をタンタンと鳴らしてリズムを取っている。
僕は知ってる。
つま先タンタンの時は瀬名さんはノリノリなのだ。
顔だけ見てても全く分からないけれども。
「じゃ、後半戦も気合入れて聴きましょうか」
「うん。気根くん、後でレビューしてもらうからね」
「うーん。ちゃんと褒められるかなあ」
幼稚園のような騒ぎのロビーを通り抜けて僕と瀬名さんは客席に戻った。
こういうシチュエーションがドラマやアニメの中以外に起こるということを想定していなかった。
僕は端的に訊き返した。
「誰のコンサートですか?」
それに対する瀬名さんの答え。
「サイケデリック・フィル・ハーモニー」
・・・・・・・・
池袋西口にあるとても美しいコンサートホール。
少し雑然とした、もっと踏み込んで言うと地方から上京した僕がアブない街だと思っていた池袋も、とても整然とした住みやすい街というのが今のイメージらしい。
「瀬名さん、クラシックが好きなんですか?」
「うーん。ロックっぽいヤツなら好き」
「ロックっぽいクラシック? 例えば?」
「ベートーヴェンの、『ジャジャジャジャーン』とか、ロックだよね」
「ああ・・・なるほど。でも、とことん趣味の合わない僕と瀬名さんが一緒にコンサート行くことになるとは思いませんでしたよ」
「わたしも別に趣味じゃないけど、このホールに一度は来てみたかったから」
瀬名さんは今日は非番。
『非番』なんてかっこいい休みの言い方、三交代ならではの特権だ。
その瀬名さんの職場であるビジネスホテルのチェーン本部は優良店舗の表彰制度を取っている。売り上げ計画達成率の定数面と、顧客サービスの定性面を基準に表彰し金一封を授与するらしい。
瀬名さんの店舗は昨年度下期の表彰を受けた。来日した時にはいつも瀬名さんのホテルを定宿にしているこのドイツのオーケストラのチケットが副賞として全従業員に配られたのだ。
そして瀬名さんはうきうきと、僕はのこのこと、18時開演のこの『サイケデリック・フィル・ハーモニー』のコンサート会場にやってきたわけだ。
「あれ? コンサートって子供も来ていいんですか?」
開演前のロビー。
目立つのは小さな子供を連れた若い夫婦の組み合わせだった。
中には妊婦さんもいる。
「気根くん。このオーケストラはね、老若男女誰にでもクラシックを楽しんでもらいたいというのがポリシーなの。だから子連れでもOKなのよ。会場が多少ざわつくのもあり」
「へー。でも、静かに演奏を聴きたい人もいるでしょう?」
「うん。だからこのオーケストラのお客さんは世界中どこでも初心者が多くはなっちゃうみたいね」
「でも、子供が泣いたりしたら演奏が聴こえないんじゃないですか」
「気根くん。大丈夫らしいよ」
「え。どうしてですか?」
「音がハンパなく大きいらしいの」
・・・・・・・
座席に着いて待っていると徐々に会場が暗くなる。
それと反比例してステージ上の灯りが万度になった。
「え・え。なんですか、あれ?」
僕はその光景を観てつい声に出してしまった。
ステージ上の人種様々50人編成のオーケストラのメンバー全員の服装が。
カジュアル、なんてものじゃない。
Tシャツにジーンズ、スニーカー、ポロシャツ、ワンピース、タンクトップ。
そして最後に舞台に歩み出て来たまだ若い男の指揮者のルックスがトドメを刺した。
「モーニン!」
一言客席に怒鳴るや、サングラスをかけたアフロヘアーを振り乱してナイキのシューズでステップを踏む。そのままオーケストラへ振り向く刹那に見えたTシャツの柄は瀬名さんがいつもシックな服の中に着込んでいるサイケなパンクバンドのそれのようだった。
指揮者は、「ディックス」というニックネームらしい。本名については解説も何もパンフレットにはない。
彼はオーケストラに向き合う慣性でもってタクトを振りかぶり、プロ野球のストッパーの全力投球のように振り降ろした。
ズガン!
そもそもクラシックだろうがロックだろうがコンサートというもの自体これが初めてだけれども、この第一音が常識はずれだということは素人の僕にも分かった。
鼓膜が、がさっ、と音を立てて揺れたかと思った。
そのまま生の音が観客に否応なくぶつけられる。
瀬名さんが僕の隣で口をパクパクしている。
「え?」
「・・・・で、・・・・ね」
「え? え?」
「だから、・・・・で、・・・・ね」
「何々⁈」
「だ・か・ら、全然老若男女向けじゃないね!」
瀬名さんの言葉が聞き取れた時、僕も同感した。
だって、この一曲目はいわゆる「現代音楽」と呼ばれる不協和音の集合体で、ホラー映画のサウンド・トラックではないかと思ったぐらいだ。
しかも多分、クラシックという枠組みを度外視したばかでかい音。
泣き出している子供までいる。
そして、視力のいい僕はステージでヴァイオリンを弾いている女性の弦のあたりにキラキラしたものが飛び散っているのが目に入った。
「なんだろ、あれ?」
「松ヤニよ」
どうやら弦がしっかり音を出すために使うらしい。
けれども、あんなに大量に飛び散るものなのだろうか。
なぜか英国旗がプリントされたTシャツを着ている若いヴァイオリニストの女性は、渾身の力で松ヤニを引っ掻くために演奏しているようにしか見えない。
クラシックに疎い僕は次々と進むセットリストの曲が一体誰のなんという曲か全くわからなかった。おそらく僕も悪いのだけれども、それ以上にこのオーケストラはマニアックな選曲ばかりしているのではないかという疑念が消えなかった。
かと思うと、
「わ。レトロだ」
と幼稚園ぐらいの子たちが騒ぎ出した。
「斜向かいのレトロ」というアニメのテーマ曲でコンサート前半の締めくくりだった。
僕の脳裏に浮かんだのは、
『無節操』
の三文字のみだった。
・・・・・・・
休憩時間にロビーで瀬名さんとコーヒーを飲んでいると、ジャケットやスーツを着た男女が僕たちの所に近づいて来た。
「おー、瀬名さんじゃない」
「あ、皆さんもいらしてたんですか」
どうやら瀬名さんのホテルの同僚の皆さんのようだ。
瀬名さんが双方を紹介してくれた。
一番先輩ぽい男性が僕に訊いてきた。
「気根さんは女性を見る目がありますね。瀬名さんを選ぶなんて」
瀬名さんはいえいえいえ、と手を振って否定し、僕はいやー、と頭を搔く。
その男性が続けた。
「正直拷問みたいなコンサートだね。僕が今まで聴いたどのロックバンドよりもでっかい音だよ」
「でも・・・音が大きいということは演奏の基礎的な力があるってことですよね」
あれ?
瀬名さんがやたらポジティブな評価をしてる。
「瀬名さん、気根さん。よかったら後半はパスして僕らと飲みに行かないかい?」
その問いかけを聞きながら、僕は瀬名さんの足元を見た。
そして僕は答えた。
「いえ。せっかくなので最後まで聴いていきます」
「そうだね。デートをお邪魔するのも申し訳ないし。じゃ、お二人ともごゆっくり」
「すみません、皆さん」
彼らを見送ってからもう一度僕は瀬名さんの足元を見た。
スニーカーのつま先をタンタンと鳴らしてリズムを取っている。
僕は知ってる。
つま先タンタンの時は瀬名さんはノリノリなのだ。
顔だけ見てても全く分からないけれども。
「じゃ、後半戦も気合入れて聴きましょうか」
「うん。気根くん、後でレビューしてもらうからね」
「うーん。ちゃんと褒められるかなあ」
幼稚園のような騒ぎのロビーを通り抜けて僕と瀬名さんは客席に戻った。