第3話 瀬名さん、バイト行ってきます

文字数 1,023文字

「気根くん、行くよ」
「はい」

 正社員の佐渡さんと一緒に軽四のワゴン車に乗り込み、営業に出掛ける。夏休みの帰省中に免許は取ったけれども、純ペーパーだ。佐渡さんがハンドルを握り、僕は助手席。
 神保町にある、㈲山見書店。山見、は登山が趣味の社長がつけた名前だけれども、扱うのは印哲(インド哲学)を中心とした哲学書だ。社長は僕の大学出身で、都内近隣の大学教授や大学院生たちを相手に輸入学術書を扱う書店を創業した。神保町という立地は最高だ。
 国公立・私立含めて、超マイナー学問を志す人たちが一極集中している。かようにして船便で届いた、素手で触れたら感染しそうな輸入学術書を軽自動車で簡単に配送できるというベスト立地だ。老朽化したテナントビルの賃料は高いが、社長はやり手。3名しかいない正社員も超優秀。この佐渡さんなんかは、ワニダで印哲やってた筋金入りだ。僕はというと、この書店の狭苦しい実売コーナーに迷い込み、社長から、「大学どこ?」と訊かれ、彼の母校だってだけでその場でスカウト採用となった。時給900円、平日半日だけのバイトとしたら、まあいい方だろう。

「よし、台車降ろして」

 まず、ニチ大に着いた。僕は軽四のハッチを開け、台車に本の詰まった段ボール箱を積み、佐渡さんに続いてガラガラとキャンパスを歩いた。一体何人いるのか、というぐらいの数の学生だ。強く感じるのは、皆、大人と見えることだ。僕が1年生で18歳だから、ってだけじゃない。たとえば今目の前を通り過ぎた女の子は、ごく自然なメイクをしており、容姿からだけで精神年齢が極めて高そうに見える。けれども、膨らんだデイパックから察するに、一般教養の授業が多い1年生だろう。佐渡さんの速足に合わせ、台車のスピードを上げ、お得意の教授がいる研究棟に入る。佐渡さんがエレベーターを操作して台車を通してくれた。


 午後から夕方までで4つの大学をまわった。新たなオーダーも日本円に換算して概算100万円分ほど貰えた。当然ながら、仕入れ値と販売価格と為替の3つで粗利を稼ぐ。入りと出の値決めはまさしく経営に直結するし、1冊あたりの単価が高い分、上ブレも下ブレも大きい。佐渡さんは社長からブレ幅について一定の権限を与えられており、その範囲で顧客・仕入先と交渉する。現地の”ブローカー”と、極めてプラクティカルな発音の英語で電話交渉しているのを何度も聞いた。

 でも、佐渡さんの夢は、印哲出らしく、あくまでも”仏教研究”だ。
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