第55話 瀬名さん、◯◯しませんか?
文字数 2,290文字
僕は実はこんなことを考えていた。
疲労感に苛まれる僕に対して瀬名さんは、
「安心できるのなら一緒にいてあげたい」
と言ってくれた。
ならば僕も言うべきだろう。
何を?
それは・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「気根くん、待った?」
「いいえ。はい。いいえ・・・」
「ふふ。へんなの」
場所は慎重に慎重を期して選び、結局やっぱりここに収まった。
瀬名さんがよく誘ってくれる、お茶の水の坂を登り切る手前。
私立の大学を過ぎたところの老舗名門ホテル。そのロビーの喫茶。瀬名さんが疲れ果てた時に立ち寄るオアシスだ。
「あれ? 気根くん。そのジャケット、初めて見るわね」
「え、ええ。ちょっとだけおしゃれしようと思って」
「そう。似合ってるわ」
残暑厳しく都心でも最高気温を更新する中、綿で涼しい仕立てとはいいながらジャケットを羽織っていられるのはクーラーの効いたホテルの中だからだ。
それと、これからする話はできればこういう僕にしたらややフォーマルな出で立ちでの方がいいと思ったからだ。
僕は先に飲んでいたアイスコーヒーをストローではなくグラスに直に口をつけて飲んだ。ついつい氷もガリッ、とかみ砕き、塊が残ったままごくっ、と飲み込む。
「あの、瀬名さん」
「なに」
「結婚してください」
瀬名さんよりも先に、周囲のテーブルのお客さんたちが反応した。
明らかに視線をすっと僕らの方へ移し、耳をそばだてて細大漏らさず状況を把握しようと努める気配が四方から伝わってきた。
瀬名さんは僕の目をじっと直視したままだ。時間がじわじわと過ぎ去る。
堪らず僕は第2声を発した。
「結婚、しませんか?」
喉が乾く。頭がクラクラする。
けれどもそれは、肝炎のダルさでは決してなく、むしろ今の僕が2度にわたって瀬名さんに伝えた『プロポーズ』で僕の全身の血管がポンプ・アップされ、血圧は上がり胸がドキドキしている。瀬名さんを見つめ返すというより睨み返すような顔になっているのが自分でも分かる。
「びっくりした」
瀬名さんが一言、つぶやく。僕もその反応にフォローを入れるように会話を紡ぐ。
「そ、そうですよね。いきなりこんなこと言ったら、びっくりしますよね」
「ううん、そうじゃなくて」
「え」
「わたしはもう自分の方から何度もプロポーズしたつもりでいたし、気根くんだってそのつもりだって思ってたから・・・むしろ、『え、今更?』って感じ」
うっ、と怯みそうになったけれども、僕は大いに主張した。
「僕は、男です」
「・・・うん」
「その・・・瀬名さんほどの人に逆プロポーズさせて平気でいられるような根性なしではないつもりです!」
「・・・わたしほど、っていうのはよく分からないけれども、なんとなく気根くんの言いたいことは汲み取れるわ。でも。こういう場合、わたしもなんて返せばいいのか分からなくって」
「一言、『はい』と」
「それでいいの?」
「え、ええ」
「じゃあ、『はい』」
なんだか微妙な感じだけれども、一応カップルの男の方がプロポーズして女子の方が受けた、という場面に周囲のお客さんたちは居合わせた光栄を感じるっていうのが通常の演出のはずだ。
ただ、僕らのこの事務的な、淡白どころか一つ間違えば殺伐とさえしているようなやりとりに、周囲が固まってとてつもなく乾き切った空気に支配されてしまっている。
「おめでとうございます!」
その空気を一太刀 で切り裂くようなよく通る男性の声が響き渡った。
あ・・・この人は・・・・
そうだ、この人は、以前瀬名さんが疲れ果ててやっぱりこの座席でうたたねしていたその時に、
『撫でちゃいなよ!』
と無言の応援をくれて、ついに僕が瀬名さんに、『頭髪ぽんぽん』をした、あの時のスタッフさんだ。
「さあ、お祝いしましょう、皆さん! この素敵なおふたりの人生の門出ですよ! 」
見ると彼は既に丸いトレイにシャンパンのグラスを2つ乗せ、片手でしかも美しい姿勢で僕らのテーブルに向かって来ていた。
グラスを、トン、トン、とテーブルに置く。
ようやく周囲のお客さんたちの無用な緊張感が溶けてきたようだ。
「さあ、もしお嫌でなければ・・・あと、お車でお越しでなければ。私どもスタッフのささやかな心づくし。生涯を共にすることを乾杯でもってお示しください!」
もはや僕らはこの空間に突如できた不思議な物語の演者だ。
考える必要もなく、王道の行動を取るだけでよかった。
不思議なことに瀬名さんにも僕にも周囲に対する気恥ずかしさはもう微塵もなかった。
見つめ合い、ふたりだけの間合いでグラスをキン、と触れ合わせ、それこそこの間の三三九度の真似のようなノリで、くっ、と飲み干した。
ほおっ、とどよめきながら周囲のお客さんたちがテーブルから立ち上がって拍手をくれた。
僕と瀬名さんも自然に立ち上がり、今度はややはにかんでペコペコと頭を下げる。
「あ・・・この曲って」
「『式日』だわ」
軽やかなギターと柑橘系のフルーツが香り立つようなドラミングのイントロが流れてきた。
瀬名さんの好きなスリーピースバンド、ACIDMANの、恋人たちのハレの日を歌った名曲だった。
「以前、お好きだと彼氏様の前で口ずさんでおられましたよね。私、ずっとこういう予感がしてたものですから。出しゃばりましてすみません」
「いえ・・・そんな」
僕と瀬名さんは2人揃って彼に深々と頭を下げた。
このスタッフさんがいるホテルの厳かで優しいロビーの喫茶。
僕が人生を大きく動かそうと決断したこの日にふさわしいファンタジーな場所となった。
多分、瀬名さんにとっても。
僕は、彼女と共に人生を歩む約束ができた安心感を胸に抱いて、これからの困難な決断を乗り切ろうと思う。
疲労感に苛まれる僕に対して瀬名さんは、
「安心できるのなら一緒にいてあげたい」
と言ってくれた。
ならば僕も言うべきだろう。
何を?
それは・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「気根くん、待った?」
「いいえ。はい。いいえ・・・」
「ふふ。へんなの」
場所は慎重に慎重を期して選び、結局やっぱりここに収まった。
瀬名さんがよく誘ってくれる、お茶の水の坂を登り切る手前。
私立の大学を過ぎたところの老舗名門ホテル。そのロビーの喫茶。瀬名さんが疲れ果てた時に立ち寄るオアシスだ。
「あれ? 気根くん。そのジャケット、初めて見るわね」
「え、ええ。ちょっとだけおしゃれしようと思って」
「そう。似合ってるわ」
残暑厳しく都心でも最高気温を更新する中、綿で涼しい仕立てとはいいながらジャケットを羽織っていられるのはクーラーの効いたホテルの中だからだ。
それと、これからする話はできればこういう僕にしたらややフォーマルな出で立ちでの方がいいと思ったからだ。
僕は先に飲んでいたアイスコーヒーをストローではなくグラスに直に口をつけて飲んだ。ついつい氷もガリッ、とかみ砕き、塊が残ったままごくっ、と飲み込む。
「あの、瀬名さん」
「なに」
「結婚してください」
瀬名さんよりも先に、周囲のテーブルのお客さんたちが反応した。
明らかに視線をすっと僕らの方へ移し、耳をそばだてて細大漏らさず状況を把握しようと努める気配が四方から伝わってきた。
瀬名さんは僕の目をじっと直視したままだ。時間がじわじわと過ぎ去る。
堪らず僕は第2声を発した。
「結婚、しませんか?」
喉が乾く。頭がクラクラする。
けれどもそれは、肝炎のダルさでは決してなく、むしろ今の僕が2度にわたって瀬名さんに伝えた『プロポーズ』で僕の全身の血管がポンプ・アップされ、血圧は上がり胸がドキドキしている。瀬名さんを見つめ返すというより睨み返すような顔になっているのが自分でも分かる。
「びっくりした」
瀬名さんが一言、つぶやく。僕もその反応にフォローを入れるように会話を紡ぐ。
「そ、そうですよね。いきなりこんなこと言ったら、びっくりしますよね」
「ううん、そうじゃなくて」
「え」
「わたしはもう自分の方から何度もプロポーズしたつもりでいたし、気根くんだってそのつもりだって思ってたから・・・むしろ、『え、今更?』って感じ」
うっ、と怯みそうになったけれども、僕は大いに主張した。
「僕は、男です」
「・・・うん」
「その・・・瀬名さんほどの人に逆プロポーズさせて平気でいられるような根性なしではないつもりです!」
「・・・わたしほど、っていうのはよく分からないけれども、なんとなく気根くんの言いたいことは汲み取れるわ。でも。こういう場合、わたしもなんて返せばいいのか分からなくって」
「一言、『はい』と」
「それでいいの?」
「え、ええ」
「じゃあ、『はい』」
なんだか微妙な感じだけれども、一応カップルの男の方がプロポーズして女子の方が受けた、という場面に周囲のお客さんたちは居合わせた光栄を感じるっていうのが通常の演出のはずだ。
ただ、僕らのこの事務的な、淡白どころか一つ間違えば殺伐とさえしているようなやりとりに、周囲が固まってとてつもなく乾き切った空気に支配されてしまっている。
「おめでとうございます!」
その空気を
あ・・・この人は・・・・
そうだ、この人は、以前瀬名さんが疲れ果ててやっぱりこの座席でうたたねしていたその時に、
『撫でちゃいなよ!』
と無言の応援をくれて、ついに僕が瀬名さんに、『頭髪ぽんぽん』をした、あの時のスタッフさんだ。
「さあ、お祝いしましょう、皆さん! この素敵なおふたりの人生の門出ですよ! 」
見ると彼は既に丸いトレイにシャンパンのグラスを2つ乗せ、片手でしかも美しい姿勢で僕らのテーブルに向かって来ていた。
グラスを、トン、トン、とテーブルに置く。
ようやく周囲のお客さんたちの無用な緊張感が溶けてきたようだ。
「さあ、もしお嫌でなければ・・・あと、お車でお越しでなければ。私どもスタッフのささやかな心づくし。生涯を共にすることを乾杯でもってお示しください!」
もはや僕らはこの空間に突如できた不思議な物語の演者だ。
考える必要もなく、王道の行動を取るだけでよかった。
不思議なことに瀬名さんにも僕にも周囲に対する気恥ずかしさはもう微塵もなかった。
見つめ合い、ふたりだけの間合いでグラスをキン、と触れ合わせ、それこそこの間の三三九度の真似のようなノリで、くっ、と飲み干した。
ほおっ、とどよめきながら周囲のお客さんたちがテーブルから立ち上がって拍手をくれた。
僕と瀬名さんも自然に立ち上がり、今度はややはにかんでペコペコと頭を下げる。
「あ・・・この曲って」
「『式日』だわ」
軽やかなギターと柑橘系のフルーツが香り立つようなドラミングのイントロが流れてきた。
瀬名さんの好きなスリーピースバンド、ACIDMANの、恋人たちのハレの日を歌った名曲だった。
「以前、お好きだと彼氏様の前で口ずさんでおられましたよね。私、ずっとこういう予感がしてたものですから。出しゃばりましてすみません」
「いえ・・・そんな」
僕と瀬名さんは2人揃って彼に深々と頭を下げた。
このスタッフさんがいるホテルの厳かで優しいロビーの喫茶。
僕が人生を大きく動かそうと決断したこの日にふさわしいファンタジーな場所となった。
多分、瀬名さんにとっても。
僕は、彼女と共に人生を歩む約束ができた安心感を胸に抱いて、これからの困難な決断を乗り切ろうと思う。