第53話 瀬名さん、病となった僕を、それでも愛してくれますか?

文字数 2,564文字

ウィルス性の肝炎と診断された僕は、病名を自覚したからか更に体のだるさが増した。

ほんとに、ほんとに、疲れるのだ。

幸い里見さんがレギュラーメンバーに加わったので山見書店のバイトは以前ほどの日数出勤しなくてもなんとかやりくりできる。
それでもバイトに出た日は夕方になると背骨のあたりがとてもだるくてだるくて、大息をついても呼気を吸いきれないような疲労感となる。以前は急ぎの書籍リストを作るのに残業を頼まれてもこなす元気があったけれども今は正直もう無理だ。

バイトが終わって神保町から瀬名さんの勤める御茶ノ水のビジネスホテルへ歩くだけでもとても物憂い。

今はまだ夏休みだからいいけれども、大学の授業が始まったら果たしてやっていけるんだろうか。
夏休みの課題をやろうとタブレットPCに向かう時も、猫が背伸びをするような動作を何回も繰り返さないとキーボードをタッチする指先に力が伝わらない。

そんな時、瀬名さんからお誘いがかかった。

「うなぎでも食べない?」

・・・・・・・・・・・・・

ちょうど瀬名さんが夜勤明けの日、瀬名さんと僕と2人で向かったのは神田だった。
時間は昼時、お盆休み明けのサラリーマンたちが昼食に命をかける時間帯。
立ち食いそば屋さん、牛丼屋さん、ちょっとお洒落なカレー屋さん、クーラーガンガンのラーメン屋さん。どの店も女子・男子リーマンが暑さをものともせずに並んでいる。

そんな中瀬名さんは年季の入ったオフィスビルの地下へと僕を誘った。

「予約してあるから」

数軒のちょっとした地下食堂街にあるうなぎ屋さんの暖簾をくぐり、瀬名です、と告げると『ご予約席』の札が立った一番奥のテーブルに案内された。

「ごめんね。勝手にうな重の特上にさせてもらったから。うなぎと肝吸(きもすい)も平気?」
「はい。うなぎは好物です」

うなぎをご馳走すると言われて嫌がる人はあまりいないだろう。僕も人並みに好物だ、ということだ。何気なくお品書きを手に取る。

「うわ!」

うな重特上 ×,×××円

万まではいかないけれども、食欲が減退するような値段だった。

「瀬名さん、こんな高いのご馳走してもらって本当に大丈夫ですか?」
「平気平気。少しでも気根くんに元気出してもらいたいから滋養のあるものをね。わたしも一度食べてみたかったし」

ほどなくして漆塗りのうな重、肝吸い、お新香が運ばれてきた。

「さ、いただきましょ」

瀬名さんの合図で2人して合掌する。

「気根くん。ここは山椒からして違うのよ。ご主人の自宅のお庭に山椒が植えてあってね。そこから取れた実を使ってるから」
「へえ、そうなんですか」
「それと気根くん、アゲハ蝶って山椒の木に卵を産むの知ってた?」
「え? 知りません。そうなんですか?」
「うん。わたしの実家に一本だけ山椒の小ぶりの木があったんだけど、毎年アゲハ蝶がやってきてね。幼虫からサナギ、羽化するまで見てたわ」
「へえ・・・瀬名さん、蝶が好きなんですか」
「好きよ。あのね、やっぱり実家の街にこんな話があってね。丘の上にあった神社は女神さまのお(やしろ)なの。それで女神さまは在所(ざいしょ)のお家に蝶を化身として遣わして、機織(はたおり)を手伝われたそうよ。トンカラリ、トンカラリ、って・・・」

うなぎを食べながら瀬名さんの話を聞く。
いいな、こういうファンタジーな瀬名さん。女の子、って感じがして。

そのファンタジーさに甘えて思わずこんな愚痴をこぼしてしまった。

「なんだか僕怠けてるみたいですよね。でも、本当にすごく疲れるんです。それこそ瀬名さんも仕事で疲れてて大変だって分かってるんですけど、僕、朝からもう疲れてて。一日が終わる頃にはもうヘトヘトなんです」

瀬名さんがお新香を、カリっ、と齧り、箸置きに箸をきちんと揃えてから僕に言った。

「気根くん。これはあくまでわたしの勝手な考えなんだけれど」
「はい」
「大学の転学、考えてみたらどうかしら」
「転学?」
「そう。明智さんやシホさんが行ってる気根くんの実家の街の大学。気根くんがそれでいいかどうかっていう問題はあるけれども」
「地元の大学、ですか・・・」
「やっぱり東京で一人暮らししながら大学に通ってアルバイトもして、おまけに学外ゼミもやって・・・病気じゃなくても本当に大変だし疲れると思う」
「でも・・・」
「わたし、一緒に行くよ」
「え」
「気根くんの県にもウチの系列のビジネスホテルあるし。エリア社員になりたいっていう希望が叶うかどうかは分からないけれど。もし無理なら別のホテルに転職してもいいよ」
「・・・でも、僕こんな状態じゃ就職活動できるかどうかも・・・」
「気根くん、松下幸之助って知ってる?」
「ええ、もちろん。パナソニックの創業者ですよね」
「もともと丁稚奉公から始まって、それで独立して起業しようと思ったのはね、幸之助さんが病弱だったからなのよ」
「え?」
「病気がちだから勤め人になるのは難しいだろうって。自分で商売するなら体の状態と相談しながらできるだろう、って」
「へえ・・・経営の神様の独立動機が病弱だから、なんて。なんだか不思議ですね。でも僕じゃ無理だなあ」
「お(うち)から大学に通って、お父さまお母さまのことを気にかけてあげて・・・それで・・・もしわたしも一緒に住んでいいのなら」
「えっ・・・」
「気根くんが就職するまでは、って思ってたけど、安心できるのなら一緒にいてあげたい・・・」

肝吸(きもすい)を眺める。

「でも、僕、病気でやっぱり体が言うことを聞かなくて・・・引きこもりみたいになるかも・・・」
「そうなったら、そうなったでいいの」
「え」
「わたしは気根くんに人生を賭けるんだもん。『賭け』だからどんな結果になるかはわからない。『どうなっても構わない』って感覚?」

すごいなあ。
瀬名さんって、ほんとにすごいなあ。
偉人よりもすごいなあ。

「おいしかったです、すごく」
「よかった。どう? うなぎは効いた?」
「なんか、肝臓に効いたような気がします」
「ふふ。気根くん、好きだよ」
「え」
「元気でも病気でも、笑ってても泣いてても。わたしはあなたが、ほんとに、好き」

僕はお重の隅に残っていたご飯をすすっ、と掻き込んだ。

「僕も、瀬名さんが大好きです」

このタイミングでお重を手に取ったことがよほどおもしろかったのか、瀬名さんは、はははっ、と笑ってくれた。

そして、僕らはうなぎ屋さんのテーブルで、見つめ合った。
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