第11話 瀬名さん、お洒落ですね
文字数 2,152文字
瀬名さんのホテルを出て更に御茶ノ水駅方面に向けて坂を登る。
「ほら。ここだよ」
瀬名さんがひらっと左折の合図を手で示すとそこは名門ホテルの敷地への入り口だった。
「またホテルですか。しかもこんな高級そうな」
「いいからいいから」
僕と瀬名さんとでホテルの建物まで並んで歩く。都会のど真ん中なのに空気がとても柔らかい気がした。すっ、とロビーに入る。
そのまま瀬名さんはロビーの中程まで進み、ここに座ろっか、と言って僕に奥の方の席を勧めて自分は通路側に座った。
すぐにスタッフさんがオーダーを取りにきた。
「気根くん、なんでも好きなもの頼んで。あ、食べ物以外ね。おごるよー」
以前暴力団組事務所前のファミレスでも『おごるよー』と言われたのを思い出した。
このホテルは文豪が執筆のために宿泊していたことでも知られ、メニューを見るまで僕は不安だった。コーヒーといえどもかなりの値段ではないかと。
けれども杞憂だった。そりゃあフランチャイズのカフェと比べればそれなりだけどもごく常識的な設定だ。いや、この格式高い老舗ホテルのロビーの雰囲気を味わえるのならむしろ安いぐらいだ。
「ブレンドを」
「あ、じゃあわたしも」
落ち着いたセンスのいいカップで出されたコーヒーをふたり同時に口に運ぶ。今更ながら気づいたけれども、瀬名さんは砂糖もミルクも入れる派だった。
「気根くん、いいでしょ、ここ」
「はい。すごくゆったり贅沢な気分です」
「そう。久しぶりに会うのにコーヒーまでうちのホテルのじゃかわいそうかなと思って」
「いえいえ。瀬名さんはたまにここ来るんですか?」
「うん、たまーにね。あーもう疲れた、やってらんない、って時にヤケコーヒー飲みに」
「安上がりですね」
「だって、お酒飲むお金なんてないでしょ」
「・・・瀬名さん、仕事、大変ですか?」
「そうだね。三交代で夜勤ありっていうのは結構こたえるよね。だいぶ慣れたけど」
「すみません、気楽な学生で」
「気楽ってことはないでしょ。気根くんは大変だよ」
「僕が大変?」
「わたしみたいなのと会ってよしよししないといけないしね」
「ほんとによしよししてあげましょうか」
「冗談冗談。でもわたしに触りたいんならしてもいいよ」
「僕も冗談です」
僕と瀬名さんは改めてロビーを見渡す。
「お洒落ですね」
「うん、お洒落だね」
「ここを憂さ晴らしに選ぶ瀬名さんもお洒落です」
「無理に褒めなくていいよ」
「女子寮の人たちが瀬名さんのホテルに行ったってこの間言ってましたけど」
「うん。ぞろぞろと来てくれたよ。ウチのホテルの売り上げに貢献したいとか言ってたけど泊まってもらうってわけにもいかないし。お風呂に入れてあげたよ」
「お風呂?」
「あれ、気根くん昨日入らなかった? 一番上の階の大浴場。一応都会の夜景も見えるお風呂ってウリなんだけど」
「あ、そうだったんですか。しまった、調べずに部屋のユニットバス使いましたよ」
「まあ夜景って言ったって本屋さんとスポーツショップ、それから楽器屋さんの看板が見えるだけだけどね」
僕の学校のことやバイトのこと、それから瀬名さんのホテルの社員さんたちのことなんかを話してるうちに頬杖をついていた瀬名さんのその頰が段々とずり落ちて来る。
「瀬名さん?」
僕が声をかけても、うん、うん、という感じの無意識の反応があるだけで結局そのまま自分の腕の上にぽふっ、と頰を乗っけて、すっ、すっ、という感じの寝息らしきものが微かに聞こえた。
僕は彼女の何を知ってるんだろう。
きっと今日が疲れ果てて憂さ晴らしをしたい時だったんだろう。僕に気を遣うっていうのも本当だとは思うけれどもそれだけじゃないと直感した。
なんだかわからないけれども、突然瀬名さんのことが愛おしくなった。
僕はこの人と本当に結婚できるんだろうか。
『結婚まで行きたい?』
そう僕に訊いた時の彼女の顔が思い出される。
目の前に目を閉じたいじらしい瀬名さんはいるけれども、過去の瀬名さんも、また、いい。
思い切ってテーブル越しに半身を浮かせ、瀬名さんの髪を撫でようと試みる。
ダンディな中年のスタッフさんがテーブル脇を通りかかったのでびくっ、として手を引っ込めてシートに座りなおした。
スタッフさんは、微笑して、
『撫でちゃいなよ!』
という無言のメッセージをくれた。
僕は、再チャレンジする。
・・・・・・・・・
瀬名さんが、がばっ、と顔を上げてきょろきょろする。
「あれ? ごめん、わたし寝てた?」
「夜勤明けですもん。無理しないで寝ててもいいですよ」
「ううん、こんなとこで寝ちゃってたら他のお客さんに迷惑だよね。ごめんごめん」
「瀬名さん、今日は何時頃まで大丈夫ですか?」
「今夜も夜勤だから。寝ておかなくちゃいけないからお昼過ぎぐらいまでかなあ」
「もっと一緒にいられたらいいですね」
「なんだったらわたしのアパートに来て一緒に夜まで寝てる?」
「いや・・・ですからそういうのはまだちょっと」
「ふふ。そうだよね。わたしと気根くんって、手も繋いだことないもんね」
瀬名さんが笑った後ろをさっきのスタッフさんが通りかかる。僕にウィンクをしてそのままカウンターの方に行ってしまった。
まるで外国映画のお洒落な小作品のワンシーンじゃないか。
それにしても。
髪を撫でる、っていうのは、手を繋ぐ段階の前なのだろうか後なのだろうか。
「ほら。ここだよ」
瀬名さんがひらっと左折の合図を手で示すとそこは名門ホテルの敷地への入り口だった。
「またホテルですか。しかもこんな高級そうな」
「いいからいいから」
僕と瀬名さんとでホテルの建物まで並んで歩く。都会のど真ん中なのに空気がとても柔らかい気がした。すっ、とロビーに入る。
そのまま瀬名さんはロビーの中程まで進み、ここに座ろっか、と言って僕に奥の方の席を勧めて自分は通路側に座った。
すぐにスタッフさんがオーダーを取りにきた。
「気根くん、なんでも好きなもの頼んで。あ、食べ物以外ね。おごるよー」
以前暴力団組事務所前のファミレスでも『おごるよー』と言われたのを思い出した。
このホテルは文豪が執筆のために宿泊していたことでも知られ、メニューを見るまで僕は不安だった。コーヒーといえどもかなりの値段ではないかと。
けれども杞憂だった。そりゃあフランチャイズのカフェと比べればそれなりだけどもごく常識的な設定だ。いや、この格式高い老舗ホテルのロビーの雰囲気を味わえるのならむしろ安いぐらいだ。
「ブレンドを」
「あ、じゃあわたしも」
落ち着いたセンスのいいカップで出されたコーヒーをふたり同時に口に運ぶ。今更ながら気づいたけれども、瀬名さんは砂糖もミルクも入れる派だった。
「気根くん、いいでしょ、ここ」
「はい。すごくゆったり贅沢な気分です」
「そう。久しぶりに会うのにコーヒーまでうちのホテルのじゃかわいそうかなと思って」
「いえいえ。瀬名さんはたまにここ来るんですか?」
「うん、たまーにね。あーもう疲れた、やってらんない、って時にヤケコーヒー飲みに」
「安上がりですね」
「だって、お酒飲むお金なんてないでしょ」
「・・・瀬名さん、仕事、大変ですか?」
「そうだね。三交代で夜勤ありっていうのは結構こたえるよね。だいぶ慣れたけど」
「すみません、気楽な学生で」
「気楽ってことはないでしょ。気根くんは大変だよ」
「僕が大変?」
「わたしみたいなのと会ってよしよししないといけないしね」
「ほんとによしよししてあげましょうか」
「冗談冗談。でもわたしに触りたいんならしてもいいよ」
「僕も冗談です」
僕と瀬名さんは改めてロビーを見渡す。
「お洒落ですね」
「うん、お洒落だね」
「ここを憂さ晴らしに選ぶ瀬名さんもお洒落です」
「無理に褒めなくていいよ」
「女子寮の人たちが瀬名さんのホテルに行ったってこの間言ってましたけど」
「うん。ぞろぞろと来てくれたよ。ウチのホテルの売り上げに貢献したいとか言ってたけど泊まってもらうってわけにもいかないし。お風呂に入れてあげたよ」
「お風呂?」
「あれ、気根くん昨日入らなかった? 一番上の階の大浴場。一応都会の夜景も見えるお風呂ってウリなんだけど」
「あ、そうだったんですか。しまった、調べずに部屋のユニットバス使いましたよ」
「まあ夜景って言ったって本屋さんとスポーツショップ、それから楽器屋さんの看板が見えるだけだけどね」
僕の学校のことやバイトのこと、それから瀬名さんのホテルの社員さんたちのことなんかを話してるうちに頬杖をついていた瀬名さんのその頰が段々とずり落ちて来る。
「瀬名さん?」
僕が声をかけても、うん、うん、という感じの無意識の反応があるだけで結局そのまま自分の腕の上にぽふっ、と頰を乗っけて、すっ、すっ、という感じの寝息らしきものが微かに聞こえた。
僕は彼女の何を知ってるんだろう。
きっと今日が疲れ果てて憂さ晴らしをしたい時だったんだろう。僕に気を遣うっていうのも本当だとは思うけれどもそれだけじゃないと直感した。
なんだかわからないけれども、突然瀬名さんのことが愛おしくなった。
僕はこの人と本当に結婚できるんだろうか。
『結婚まで行きたい?』
そう僕に訊いた時の彼女の顔が思い出される。
目の前に目を閉じたいじらしい瀬名さんはいるけれども、過去の瀬名さんも、また、いい。
思い切ってテーブル越しに半身を浮かせ、瀬名さんの髪を撫でようと試みる。
ダンディな中年のスタッフさんがテーブル脇を通りかかったのでびくっ、として手を引っ込めてシートに座りなおした。
スタッフさんは、微笑して、
『撫でちゃいなよ!』
という無言のメッセージをくれた。
僕は、再チャレンジする。
・・・・・・・・・
瀬名さんが、がばっ、と顔を上げてきょろきょろする。
「あれ? ごめん、わたし寝てた?」
「夜勤明けですもん。無理しないで寝ててもいいですよ」
「ううん、こんなとこで寝ちゃってたら他のお客さんに迷惑だよね。ごめんごめん」
「瀬名さん、今日は何時頃まで大丈夫ですか?」
「今夜も夜勤だから。寝ておかなくちゃいけないからお昼過ぎぐらいまでかなあ」
「もっと一緒にいられたらいいですね」
「なんだったらわたしのアパートに来て一緒に夜まで寝てる?」
「いや・・・ですからそういうのはまだちょっと」
「ふふ。そうだよね。わたしと気根くんって、手も繋いだことないもんね」
瀬名さんが笑った後ろをさっきのスタッフさんが通りかかる。僕にウィンクをしてそのままカウンターの方に行ってしまった。
まるで外国映画のお洒落な小作品のワンシーンじゃないか。
それにしても。
髪を撫でる、っていうのは、手を繋ぐ段階の前なのだろうか後なのだろうか。