15)飛鳥・酒船石遺跡の亀形石造物と湧水施設

文字数 1,257文字

 須弥山石(しゅみせんせき)とあわせて考えると、同じ斉明女帝の時代に造られた亀形石造物および湧水施設が何を表現しているかという点について、それほど謎(オーパーツ)ではなくなります。
 小判形石造物が男性、亀形石造物が女性というイメージでしょうか。


 この表現の様式は、例えば、第13章で紹介した長者ケ原遺跡の竪穴住居の入り口に埋納されていた遺物と、大きく意味は変わらないと思います。
 男女の和合を仕組みとして、長者ヶ原の縄文時代ほど赤裸々ではなく、むしろ

に表現している点で、より客観的、科学的な視点で、当時としては最新の知見の「見える化」だったのではないでしょうか。
 おそらく同じ巫女(みこ)大王(おおきみ)でもあった推古女帝の流れを汲み、石造物の設計に関わったであろう斉明女帝という人を調べるほどに、彼女が神道の力を信じ、神の()(しろ)大王(おおきみ)として、祭祀と真摯に向き合った女性だったというイメージが強まります。簡単に言えば、根っからの姫巫女(ひめみこ)でした。
 彼女の時代は、長く続いてきたモノノベ氏の古神道が突然に消滅した(丁未(ていび)の乱)ため、新しい方向を打ち出し人々を導くことが急がれており、その権威と責任をおよそ一人で背負っていた。そういう風に映ります。
 推古女帝は聖徳太子(上宮皇子)というサポート役がいた分、恵まれていました。上宮皇子はもとより神仏習合的で、仏教と神道の融合をおだやかに目指した現実主義者だったからです。

 干ばつや疫病を祈祷の力で首尾よく抑えることで、大王(おおきみ)の力量が計られてきた歴史の中で、この世の根源的な仕組みをあらわし、斉明女帝が巫女として真理を極めようとした、そのこん跡のひとつが亀形石造物および湧水施設ととらえることができます。


 石神(いしがみ)須弥山石(しゅみせんせき)の祭祀場を置き、蝦夷たちを招き、祭祀を行なう中で、縄文以来の

に舵を切ることは、おそらく一定の勢力の反感を買ったと思われます。斉明女帝が宮を造るたびに放火され(飛鳥板蓋宮、岡本宮)、干ばつ対策として東の丘から飛鳥川に向かって大溝を掘り、水の流れをつくる大工事は、狂心渠(たぶれごころのみぞ)揶揄(やゆ)されるほどでした。

 日本書紀の記述では、北の石上(いそのかみ)(現在の天理市)から南の香久山(かぐやま)(同・橿原市)に及ぶ(約18キロ)大規模土木工事だったようです。亀形石造物および湧水施設は、そのごく一部と考えられますが、現在の酒船石(さかふねいし)遺跡(明日香村岡)の段丘の麓で発見されました。酒船石(さかふねいし)のある段丘が、「宮の東の山に石を(かさ)ねて垣」とした「石の山丘(やまをか)」である可能性が高いと考えられます。

 (写真上:段丘上の酒船石、写真下:段丘中腹で平成4年に発見された石積み)



 日本書紀・斉明二年)時に興事(おこしつくること)を好む。すなわち水工(みずたくみ)をして(みぞ)穿()らしむ。香山(かぐやま)の西より石上山(いそのかみやま)に至る。舟二百隻(ふねふたももふな)を以て、石上山(いそのかみやま)の石を()みて、(ながれ)(まま)控引()き、宮の東の山に石を(かさ)ねて垣とす。時の人の(そし)りて()はく「狂心(たぶれこころ)(みぞ)功夫(ひとちから)(おと)(つひや)すこと、三萬余(みよろずあまり)。垣造る功夫(ひとちから)を費やし(おと)すこと、七萬余(ななよろずあまり)宮材爛(みやのきただ)れ、山椒埋(やまのすゑうずも)れたり」といふ。又、(そし)りて()はく「石の山丘(やまをか)を作る。作る(まま)(おの)づからに(こぼ)れなむ」といふ。
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