須弥山石とあわせて考えると、同じ斉明女帝の時代に造られた亀形石造物および湧水施設が何を表現しているかという点について、それほど謎(オーパーツ)ではなくなります。
小判形石造物が男性、亀形石造物が女性というイメージでしょうか。
この表現の様式は、例えば、第13章で紹介した長者ケ原遺跡の竪穴住居の入り口に埋納されていた遺物と、大きく意味は変わらないと思います。
男女の和合を仕組みとして、長者ヶ原の縄文時代ほど赤裸々ではなく、むしろ
機構的
に表現している点で、より客観的、科学的な視点で、当時としては最新の知見の「見える化」だったのではないでしょうか。
おそらく同じ
巫女で
大王でもあった推古女帝の流れを汲み、石造物の設計に関わったであろう斉明女帝という人を調べるほどに、彼女が神道の力を信じ、神の
依り
代の
大王として、祭祀と真摯に向き合った女性だったというイメージが強まります。簡単に言えば、根っからの
姫巫女でした。
彼女の時代は、長く続いてきたモノノベ氏の古神道が突然に消滅した(
丁未の乱)ため、新しい方向を打ち出し人々を導くことが急がれており、その権威と責任をおよそ一人で背負っていた。そういう風に映ります。
推古女帝は聖徳太子(上宮皇子)というサポート役がいた分、恵まれていました。上宮皇子はもとより神仏習合的で、仏教と神道の融合をおだやかに目指した現実主義者だったからです。
干ばつや疫病を祈祷の力で首尾よく抑えることで、
大王の力量が計られてきた歴史の中で、この世の根源的な仕組みをあらわし、斉明女帝が巫女として真理を極めようとした、そのこん跡のひとつが亀形石造物および湧水施設ととらえることができます。
石神に
須弥山石の祭祀場を置き、蝦夷たちを招き、祭祀を行なう中で、縄文以来の
過去の方向
に舵を切ることは、おそらく一定の勢力の反感を買ったと思われます。斉明女帝が宮を造るたびに放火され(飛鳥板蓋宮、岡本宮)、干ばつ対策として東の丘から飛鳥川に向かって大溝を掘り、水の流れをつくる大工事は、
狂心渠と
揶揄されるほどでした。
日本書紀の記述では、北の
石上(現在の天理市)から南の
香久山(同・橿原市)に及ぶ(約18キロ)大規模土木工事だったようです。亀形石造物および湧水施設は、そのごく一部と考えられますが、現在の
酒船石遺跡(明日香村岡)の段丘の麓で発見されました。
酒船石のある段丘が、「宮の東の山に石を
累ねて垣」とした「石の
山丘」である可能性が高いと考えられます。
(写真上:段丘上の酒船石、写真下:段丘中腹で平成4年に発見された石積み)
日本書紀・斉明二年)時に
興事を好む。すなわち
水工をして
渠を
穿らしむ。
香山の西より
石上山に至る。
舟二百隻を以て、
石上山の石を
載みて、
流の
順に
控引き、宮の東の山に石を
累ねて垣とす。時の人の
謗りて
曰はく「
狂心の
渠。
功夫を
損し
費すこと、
三萬余。垣造る
功夫を費やし
損すこと、
七萬余。
宮材爛れ、
山椒埋れたり」といふ。又、
謗りて
曰はく「石の
山丘を作る。作る
随に
自づからに
破れなむ」といふ。