40)ヒスイのものづくり史(4)太陽祭祀の畿内への東遷ルート

文字数 1,966文字

 記紀の神武東征(じんむとうせい)は、およそ

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日向(ひゅうが)から古代大和湖畔(奈良)に向かった初代神武天皇(じんむてんのう)、すなわち神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)彦火々出見(ひこほほでみ))が長髄彦(ながすねひこ)に勝利し、ヤマト王権を確立したというストーリーですが、硬玉ヒスイのものづくり史の観点、遺跡(平原→唐古・鍵)から推定される

の太陽祭祀の東遷(とうせん)の史実とは、そもそも時期がズレています。よって本著では東遷と東征を分けて考えています。(神武東征は何らかの史実をベースに脚色された神話として捉えています)

 平原(ひらばる)(福岡県糸島市)から唐古・鍵(からこ・かぎ)(奈良県磯城郡(しきぐん)田原本町)への東遷には、百年を超えるほどのタイムラグはないと考えられ、となると、移動が迅速な吉備(きび)経由の海路・瀬戸内海ルートが有力です。(第20章の図を再掲。なお、瀬戸内海ルートの起点、志賀島は平原のイト・シマの至近)


 難波から古代大和湖畔への経路としては、おおむね、二ルートが想定できます。
 ひとつは、紀元前後には河口が今よりも北にあった淀川北岸で、一帯を支配する勢力があった三島の稲作弥生文化圏(現在の高槻市~茨木市)を中継地として生駒山系の東回りで古代大和湖畔に南下するルート。
(地図:大阪歴史博物館展示パネルに加筆。基準となる赤点の大阪歴史博物館は大阪城の南。弥生中期ごろの大阪平野を参照してください)

 もうひとつは、現在の和歌山市内を流れる紀の川(きのかわ)(現在の大阪府と和歌山県の県境、中央構造線に沿う)を遡上(そじょう)して、御所市(ごせし)(奈良県)から北上するルートです。

 三島文化圏は、北陸日本海~琵琶湖~淀川の水運で繋がる交通の要衝にあり、縄文から弥生稲作までの遺跡が累積しています。
 中核的な安満(あま)遺跡は近くの縄文・芥川(あくたがわ)遺跡から連続すると考えられる大規模な稲作弥生(環壕)集落で、規模は大きくないものの玉作(たまつくり)遺跡が見つかっています。つまり、安満を含む三島文化圏は、ヤマトの

(あるいは並行する)と考えることができます。
 このような考古学的な証拠の他、日本書紀(第八段・第六)の『事代主神(ことしろぬしのかみ)八尋熊鰐(やひろのわに)となって三島溝樴姫(みしまのみぞくいひめ)(溝咋比賣命)に通って生まれた子が姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)であるとする』という伝承記述がさらなる連想を呼びます。
 いきなり出雲の話が出てきて混乱しそうですが、ヒスイのモノづくり(第39章)を根拠として、伊都国(いとこく)を出雲文化(の影響を色濃く受けた)のクニと考えると繋がります。
 三島溝樴姫はこの三島を支配した勢力の姫巫女(ひめみこ)で、その娘の姫蹈鞴五十鈴姫命は初代神武天皇の皇后、第二代綏靖天皇(ようぜいてんのう)の母とされています。
 ちなみに綏靖天皇は、神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)(日本書紀、古事記では神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと))と称されており、硬玉ヒスイの産地、糸魚川の姫川を暗示する渟名川(沼河)が名に含まれています。
 記紀に渟名(ぬな)が登場するのは天渟名井(あめのぬない)(第38章)に次いで二回目。ヤマトの大王の権威、そのシンボルとして、ヒスイのアクセサリーのようなものを身(耳)に付けていたのでしょうか。

 この三島文化圏は日本の古代史では大変重要で、このヒスイのモノづくり史観では、古墳時代の継体天皇(第19章で一度紹介)のところでまたあらためて再度、触れたいと思います。

 紀の川ルートについてはまだ私自身の調査が十分とは言えない段階ですが、古代豪族紀氏(きうじ・きのうじ)の根拠地であり、御所市五百家(ごせし いうか)にツツジ寺として有名な船宿寺(せんじゅくじ)(創建725年、真言宗)があり、その名が古代の紀の川の水運に由来するという伝承があるほか、中流域の和歌山県伊都郡(いとぐん)(しま)の地名がある点も含めて、イト・シマからの太陽祭祀の東遷の考察においては無視できないと考えています。

 本章のここまでの考察において、お気づきになった向きもあると思いますが、日本古代史の構成要素として重要なパーツ、物部氏(もののべし)が抜けていることです。ここまではヒスイのものづくり史で浮かび上がる『出雲の日本海・都市国家(出雲、越、伊都、三島)群』として、あえて紹介してきたのですが、上記の稲作弥生文化と太陽信仰の東遷とともに、

存在感を増してくるのが物部氏です。
 北九州をスタート地点にして、日本海、北九州、瀬戸内海、難波、ヤマトなどにおいて、後の古墳時代をピークに、玉作集団のコントロールも含めて、弥生の出雲文化に代わって、

古代史の表舞台に登場する印象です。

 縄文海人・安曇や久米の血脈を継ぐ大伴氏とともに、ヤマト王権を補佐し、軍事・祭祀集団として力を付けてゆくことになりますが、その端緒は北部九州からです。(第19章のヤマトの古代豪族・勢力分布図の再掲。三輪山麓の大王家を挟むように物部氏と大伴氏)


 物部氏の巧妙なところは、ライバルであった大伴氏、つまり海人族の中にも溶け込み、古代の王権の力の源泉であった、ものづくりと海上交易に広範に関与し、浸透し、大勢力化していった点です。
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