23)人頭馬脚のイメージとアラ・ハバキ

文字数 1,553文字

 江戸後期~明治初期の絵師、菊池容斎(きくちようさい)(1788-1878)が著わした日本史偉人585人の伝記集・前賢故実(ぜんげんこじつ)の中で描かれたものから。
 まず、平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の肖像画をご覧ください。
 武人ですからアラとハバキのスタイルのはずですが、(すね)当ての脛巾(はばき)は見えず、かわりに(あぶみ)を踏む足元が鳥の羽根のように見え、馬の後脚(うしろあし)と一体化したように描かれています。馬の尾も同じようで、足元は超人的に表現されています。お供の足元はカットされています。
 リアルさの中に何気なく描かれた異次元は、エッシャーの錯視画のようです。

 漢文略伝)張将軍之武略、當案轡於前駈、蕭相國之奇謀、宜執鞭於後乗(張良将軍のように武略があり、紙面で戦の行方を御す、蕭何相国のように奇策があり、後方支援に尽力する)

 次にもう一点。四天王寺・元三大師堂(がんさんだいしどう)のペットの御守り札で、今でも頒布されているもの。


 聖徳太子の甲斐(かい)黒駒(くろこま)

-という伝説に基づく絵柄です。
 太子のお供をしているのが黒駒を飼養した舎人(とねり)調使麿(ちょうしまろ)ですが、描かれた足元をご覧ください。富士山を飛び越える人馬に仕えるのに必要な

を履いているようです。

 田村麻呂(たむらまろ)公の前賢故実(ぜんげんこじつ)は江戸後期に描かれたものですし、聖徳太子の甲斐の黒駒図もおそらく江戸期のものかと思いますが、いずれも今では失われた(忘れられた)何らかの古典・伝承に基づいて、足元の細部にわたり考案された様子がうかがえます。

 二つの絵に共通するのは乗馬する日本古代史の偉人で、その業績において馬を必要とし、ゆえに馬を愛した人というところでしょうか。

 征夷大将軍としての坂上田村麻呂はその武略と機動力を発揮するために馬を存分に利用した戦闘のプロでした。勝利してしまえば昨日の敵は今日の友といった姿勢の人で、蝦夷(えみし)の英雄・阿弖流為(あてるい)母禮(もれ)らを平安京に連行後、その助命嘆願と解放を上奏(じょうそう)しましたが、公卿(くぎょう)らの反対で(かな)いませんでした。

 聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)とも称されるように、その人生には馬にまつわる伝承も多く、幼少の頃から馬を愛し生きた様子がみえ、躍動的に馬を()る技術をマスターしていた人だったと思われます。(第6章、④聖徳太子の碑(明日香村立部、愛馬のつなぎ石)を参照。
 推古女帝の摂政として直線距離にして約20キロの斑鳩宮と飛鳥京を日々往復するのに愛馬はよき供だったでしょう。もちろんそれを支える配下・氏族の環境が整っていたことはいうまでもありませんが、本著では、後章でその点に触れておきたいと考えています。
 (写真は太子生誕の地とされる明日香・橘寺の黒駒像)


 さて、なぜ二人には、馬とともに超人的なイメージが与えられ、伝承されているのでしょうか。田村麻呂公の絵のように、人馬一体化した、人頭馬脚のイメージと言い換えてもよいでしょう。
 そのイメージは東日本・北日本ほど色濃く、それは随神門(ずいしんもん)随身像(ずいしんぞう)の分布密度と相関していると想定しています。
 なぜならば、例えば、戦いの前線において渦巻紋様(うずまきもんよう)の隼人の(たて)を立て、隼人(はやと)蝦夷(えみし)大伴(おおとも)佐伯(さえき))の武人が騎乗する姿は、全体として蝦夷の闘争心を奪い去る大きな心理的効果があったと考えているからです。
 馬を見たことがない、あるいは、たとえ見たことがあっても、アラ・ハバキの姿をした武人が騎乗し、人頭馬脚の人馬一体から繰り出されるスピードと攻撃力は、蝦夷の人々にとって神業であり、とても勝ち目のある相手には思えなかった、と。
 またそのような武略は、朝廷軍として攻める側の武人にとっても、同祖と認識している相手の蝦夷にとっても、双方の被害を最小限にとどめることも考慮していたのではなかったかと考えています。
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