13)アラハバキ信仰は東高西低?

文字数 1,579文字

 アラハバキの信仰は、縄文以来の「アラ=()まれる=()れます」がベースになっている点で、もちろん汎日本的なのですが、その縄文以来のプリミティブな信仰のスガタは、おそらく西暦前後の弥生時代から古墳・飛鳥・奈良・平安と、時代を経るにしたがって(みやこ)の置かれた畿内を中心に、西日本から順に消えてゆきます。
 律令国家としてのヤマトのカタチが固まってゆくとともに消えてゆくのですが、具体的には、仏教的な道徳観の広がりとともに

と考えています。

 そのため、西日本ではアラハバキといっても聞いたこともない人が多く、逆に、東~北日本ほど知っている人が増えてゆく傾向があるのではないでしょうか。
 そこで、今一度、本著がテーマにしているアラハバキの原初的な姿を、おおまかにみてもらうことにします。
 私が想定するアラハバキ信仰の全体像は、決してこれがすべてではないのですが、ひとまず、入口的な事例としてご覧ください。

 写真は、長者ヶ原遺跡(新潟県糸魚川市。縄文中期)20号住居跡の入口から発掘された埋甕(うめがめ)の一様式ですが、石を差し込んだ甕と扁平な石の組み合わせが、それぞれ何を象徴しているかは一目(ひとめ)でわかります。丸石は子宮です。

 縄文の人々は、例えばこういうカタチで「土、土中」を考え、亡くなった胎児・乳幼児の再生、あるいは子どもの成長、あるいは子孫繁栄を切実に祈っていたと考えられます。「このような風習は、昭和初期まで行われていた胎盤などを容器に入れて土間に埋める風習の起源」と説明パネルに書かれているように、表向きの神事や仏事の埒外(らちがい)で、土着の習俗としてひそやかに続いてきた信仰の(たぐい)です。ちなみに土間には(かまど)があります。

 縄文遺跡からは大小さまざまな石棒(せきぼう)が出土し、その詳しい用途は考古学においても祭祀だろうという予測の域を出ていませんが、いずれにしても、子孫繁栄にかかわる複数の祭式用途(埋納、屋外立石、屋内祭壇、携帯用)にあわせて、たくさんのサイズがあったものと考えられます。(写真は上に同じく長者ヶ原考古館に展示されている最大級の石棒。右下パネルは長者ヶ原のヴィーナスの発掘時)

 このような石棒信仰は、例えば、第4章「フィールドワーク(多賀城・荒脛巾神社)」の道祖神の奉納物、第7章「アラの始まり」の生島足島(いくしまたるしま)神社・荒御魂(あらみたま)(境外)の石像に継承されていったと考えることができますが、やがて神道や仏教の埒外となり、土着の習俗的なものになってゆきます。そしてそのような信仰は東~北日本エリアの地域ごとに

残されています。

 ひるがえって、西日本ではアラハバキ的な信仰は無かったのかというと、そんなことはなく、たとえば第5章「フィールドワーク(葛木倭文座天羽雷命神社)」のような「蟹守(かにもり)倭文(しとり)=助産と養育」のカタチがこん跡として残されています。しかし、第6章「アラハバキ解(1)宮城と奈良の二社比較」で試みたように東北に現存するアラハバキ信仰と比較しないと、こん跡としてすら認識されないぐらいに

いるのです。

 しかし、もう一例、これは明らかなケースとして。
 写真は奈良県明日香(あすか)村の飛鳥資料館の前庭に展示されている「須弥山石(しゅみせんせき)」のレプリカ石像。実物は発掘当時の一段欠けた状態で飛鳥資料館内に展示されています。

 須弥山石(しゅみせんせき)は、明日香村飛鳥の石神(いしがみ)遺跡から明治35年(1902年)に掘り出されました。
 これについては次章以降で紹介しますが、石像に関連して、アラハバキ信仰をよく知る人なら遺跡の名にピンと来ると思います。
 石神(いしがみ)石神(しゃくじ)(または、しゃくし)として、先の縄文の石棒(せきぼう)信仰を継承したものとして、東~北日本では信仰の対象物になっている事例が

見られるからです。
 東京都練馬区石神井(しゃくじい)のように、掘り出された石神(しゃくじ)が地名の由来になっているケースもあるくらいです。

(長者ヶ原のヴィーナス)
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