43)ヒスイ史まとめ-古代信仰の宗教観

文字数 2,292文字

 ヒスイのモノづくり史は、縄文中期(BC5000年)に始まり、弥生時代の日本海・出雲の玉作(たまつくり)を経由して、古墳時代の河内期・物部氏(もののべし)に変遷してゆく歴史を骨格としています。

 縄文時代のヒスイ大珠(たいじゅ)は、第12章で考察した通り、ヒスイに開けられた(あな)万物(ばんぶつ)の生成原理のシンボル、「あちらとこちらをつなぐ通り道」のイメージと考えます。(第3章)
 ヒスイ大珠の出土分布から、この宗教的な観想は

ことがわかります(第37章)。これはたいへん重要なことで、陸海の交易を基盤とした大きな文化圏(円筒土器(えんとうどき)文化圏、さらに後の遮光器土偶(しゃこうきどぐう)分布圏ともピタリと重なる)が縄文中期以降の列島に(長期にわたって)存在していた証拠になります。
 大珠が具体的にどのような使われ方をしていたのかは推測の域を出ませんが、孔があいた青緑のヒスイ珠を水源地に浸けたり(※)集落の土中(墓域(ぼいき)を含む)に埋めることで、並行する霊的世界(あの世)と現実世界(この世)との間をつなぐ祭祀的なやりとり(第27章、ドリーミング。参考)を通じて、

をうながそうとしたと考えられます。
(※)天渟名井(あめのぬない)天真名井(あめのまない)(第38章)の起源と考える

 縄文の大珠にかわって登場するのが弥生のヒスイ勾玉(まがたま)ですが、縄文時代の獣型勾玉(じゅうけいまがたま)滑石(かっせき)蝋石(ろうせき)製)のカタチと孔を継承して、曲がりのカタチに定型化しました。
 硬いヒスイに孔をあけて、現実と霊的世界の回路とする宗教観は、先の縄文文化圏の信仰とも共通し、すなわち、東北・東日本の縄文と日本海・出雲が融合しながら、おおむね平和裏に弥生時代に移行していった姿(都市国家群の形成、第40章)が想定されます。

 縄文(晩期)から弥生(前期)へ。いわゆる記紀以前の時代における東北・東日本文化の南進というシナリオです。
(海のヒスイの道。日本海交易ネットワーク。日本海側からの発展イメージ)


 日本古代史の考察は記紀(きき)依拠(いきょ)せざるを得ないことは承知していますが、考古学の研究が進み、歴史考察の視野が広がることによって、記紀史観とも言うべき東進(神武東征(じんむとうせい))以前に、列島では文化の南進が起こっていたことに関するさらなる知見が登場することを期待しています。

 そしてこの後(弥生後期)に太陽祭祀の東遷(BC200以降、第40章、糸島→三島→大和)が起こったというのが、ヒスイのモノづくりの追跡から導き出される史観です。

 弥生のヒスイ勾玉を考える参考になるのが、古代大和湖畔の初瀬川(はつせがわ)大和川(やまとがわ))の段丘(だんきゅう)に営まれた唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡(BC200~AD200)の出土例です。
 (弥生の宝石箱=ヒスイ勾玉2つ+自然褐鉄鉱(かってっこう)の容器とフタ(本来、円型)、第37章)。

 (渦巻き飾りの屋根の神殿の前で行われる祭祀の想像模型)

 同遺跡は大規模な環濠(かんごう)集落(低湿地~微高地の斜面を利用した水田開発、洪水対策を兼ねる)で、伊勢内宮(いせないぐう)神明造(しんめいづくり)に似た神殿跡が発見され(稲作の)豊穣祭祀が行われた様子が複数土器の線刻画に残されています。弥生の宝石箱は神殿そばの溝から出土しました。(写真左上;2019年、近くの清水風(しみずかぜ)遺跡から出土した線刻画(せんこくが)。乳房のある女性=巫女(みこ)と解釈されています)

 宝石箱のヒスイ勾玉は種(モミ)、2つ一組で男女、容器は種を守り(はぐく)むもの(子宮)、土中は(太陽=火、水の働きと作用して)そこから万物があらわれる霊的な世界と考えると、種となる勾玉の曲がりのカタチは生命の始まり、つまり動物であれば胎児をあらわしていると考えてよいと思います。またそういう意味で、アクセサリー用途オンリーのものではないと考えています。

 (写真:唐古・鍵考古学ミュージアム展示パネル)

 この後、唐古・鍵の文化は纏向(まきむく)

-にスライド(~AD200ごろ、37章)し、纏向後(AD250年以降)に古墳時代が始まります。展示パネル写真の通り、纏向(箸墓(はしはか)古墳)は大和の神奈備(かんなび)三輪山(みわやま)大神(おおみわ)神社)の(ふもと)にあり、ヤマト王権の中心地であったことも含めて一帯は日本古代史のホットスポットで、特に謎の多い時代であるためブラックボックスでもあります。
 当時の大和平野では、古代の諸族が分裂や同盟を繰り返し、王権が伯耆(ほうき)地方(孝霊山(こうれいざん)妻木晩田(むきばんだ)遺跡)に一時移動した可能性など、複雑な経緯の後、結果としてヤマト王権が存続したと考えられますが、ちょうどこのあたりが欠史八代(けっしはちだい)(第二代綏靖(ようぜい)天皇(神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)、第40章)~第九代開化天皇。第七代孝霊天皇)の時代に重なります。
 日本では北九州を起源とする物部氏は、王家に近いこの時代のヤマトで勢力を拡大し、後に石上(いそのかみ)(奈良県天理市、石上神宮(いそのかみじんぐう))に本拠を移し、さらに河内に勢力範囲を伸ばし、河内期・物部氏の興隆(第41章)に繋がります。
 ヒスイのモノづくり史観では、縄文から弥生時代への平和な移行と拡散とは対照的に、この過程においては、物部氏の力による勢力拡大と独占支配の姿が浮かび上がってきます。

 列島で長きにわたり共有された宗教観の象徴物であった硬玉ヒスイが、河内期・物部氏においては、唯物(ゆいぶつ)的な貨幣的価値-

調

(第42章)-に置き換えられ、それゆえに巨大な利権として産地も技術も物部氏が独占した姿です。
 結局、この独占と支配が河内期・物部氏の経済的源泉であったがゆえに、後の丁未(ていび)の乱(587年、物部宗家(そうけ)の滅亡)後、その復活を願わないヤマト王権によって、サプライチェーンが徹底的に封印された結果、糸魚川の地元ですらヒスイが一千年以上にわたって忘れられた(第38章)理由であったと考えています。
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