48)赤い矢と出雲後物部(いずものちもののべ)

文字数 2,515文字

 大物主(おおものぬし)という神は謎です。出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)(遅くともAD700ごろ成立、ヤマト創世記、第44章)で、その正体は大穴持命(おおなむちのみこと)で『自らの和魂(にぎみたま)八咫鏡(やたのかがみ)に遷し三輪山(みわやま)に鎮座し、自らは出雲大社に鎮座する』と伝えられ、この内容では大穴持命=オオクニヌシの和魂ということになり、大神神社の由緒もおおよそこの文脈に沿った内容となっています。
 補足として、出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)の文脈が、記紀(きき)国譲(くにゆず)り神話(出雲側の視点では国を簒奪(さんだつ)された歴史)に連動している・・・むしろ和魂という

を打ち出してまで、あえて平和的な権力移譲を強調するストーリー仕立ては、史実考察の上で、留意しておくべき点と考えています。

 古事記では『三嶋湟咋(みしまのみぞくい)の娘の勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)を気に入った美和(みわ)大物主神(おおものぬしのかみ)が、赤い丹塗(にぬ)りの矢に姿を変え、比売(ひめ)が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに陰所(ほと)を突いた。彼女は驚き走り回ったあと、すぐにその矢を自分の部屋の床に置くと麗しい男の姿に戻った。こうして二人は結ばれて、生まれた子が富登 多多良伊須須岐比売命(ほと たたらいすすきひめ)である』という一節。
 これに対応する日本書紀の『事代主神(ことしのぬしのかみ)八尋熊鰐(やひろのわに)となって三島溝樴姫(みしまのみぞくいひめ)(溝咋比賣命)に通って生まれた子が姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみことであるとする)』の伝承(第40章)。

 大物主神の正体について、古事記(出雲国造神賀詞、大神(おおみわ)神社由緒)ではオオクニヌシの和魂、しかし、日本書紀ではコトシロヌシの他に解釈のしようがなく、つまり王とその補佐役という別人ですから、矛盾が生じてしまいます。

 大物主神の正体を考える前に、もうひとつ、上賀茂(かみがも)神社(賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、京都)の創建神話にも

の話が残されています(釈日本紀(しゃくにほんぎ)(鎌倉時代に成立した日本書紀の注釈書)山代国風土記(やましろのくにふどき)逸文(いつぶん)
 『玉依姫(たまよりびめ)(下鴨社の御祭神)が瀬見(せみ)の小川(鴨川)で遊んでいると、丹塗(にぬ)りの矢が流れて来たので拾い、床に置いた所、しばらくして懐妊(かいにん)し、男子を出産した。その子が成長した頃、祖父の建角身命(たけつぬみのみこと)(同じく下鴨社の御祭神=ヤタカラス)が神々を集めて七日七夜の饗宴をし、その席で「自分の父と思う人にこの酒を飲ませよ」と言ったところ、子は天に杯を(かか)げて昇天し、後に、別雷命(わけいかずちのみこと)として神山(こうやま)に降臨した。丹塗りの矢は乙訓郡(おとくにぐん)にいます火雷命(ほのいかずちのみこと)である。』
 『賀茂』は、この上賀茂神社の由緒から創作された謡曲。(写真:左)上賀茂神社から御神体山の神山(こうやま)、右)上賀茂神社・謡曲『賀茂』の説明板。玉依姫は秦氏(はたうじ)の妻女で白い矢の話として創作されていることが書かれています)


 *****

 いずれも、出雲系の姫が、赤い矢と交わり懐妊し、姫(初代神武天皇の(きさき))を生む話ですが、赤い矢は

血統を暗喩していると解釈することができます。
 では非出雲系の血統とはだれか?という推理になりますが、古墳時代中期における河内での興隆を考えれば、キングメーカー・物部氏の他に有力な候補は見当たりません。
 つまり、大物主神の正体は(個人の特定は史料もなく不可能と思いますが)古墳時代前期から中期への過渡期における物部氏が習合した、いわゆる創られた神格であると考えています。

 先ほど「和魂という新概念を出してまで」という表現をしましたが、本来、日本には「アラ」の概念(第3章)しかなく、「ニギ、和」は後世、聖徳太子(厩戸皇子(うまやとのおうじ))の時代になって神仏習合による平和国家建設の意識の中で明確になった「和」の概念が契機と考えられ、よって「和魂」は太子よりもさらに後の時代(おそらく平安時代以降)に考えられたものと思われます。
 ご存じの通り、物部氏(宗家)は、その厩戸皇子の時代(丁未の乱、587年)に滅亡しましたが、そこを終末点とすると、出発点は古墳時代前期、ヤマト王権内における祭祀と軍事を背景にした勢力拡大にあったと言えるでしょう。

 代表的な前期古墳、中でも大王級の大古墳(関西圏の主要なもので考察。桜井茶臼山、黒塚(くろずか)椿井大塚山(つばいおおつかやま)雪野山(ゆきのやま)など)では水銀朱を大量に使用した朱塗りの石室を特徴として、三種の神器(銅鏡、鉄刀、玉類)、武力の象徴としての甲冑(かっちゅう)・矢じり(銅鏃(どうぞく)鉄鏃(てつぞく))も、副葬品として出土しています。
 中でも

武器の副葬は、戦いと武力による征服-被征服の構造、そして、祭祀と軍事を司る物部氏の存在感の強まりを感じます。

 少し複雑ですので、当時の情勢を整理しました。
 ・紀元前:都市国家群の連合として安定していた弥生時代中期~
 ・紀元前後:太陽祭祀のヤマト東遷で権威が流動化(第40章)
 ・AD150~200:中国の史書に倭国大乱の記述
 ・AD250±80年(推定):かつての中心国家であった出雲の国譲り(※記事末)
 ・AD250~:古墳時代が開始。古墳造営に伴う王権の全国波及(第47章)

 中国史書に書かれた倭国大乱(わこくたいらん)を通じて、出雲の国譲りがあり、ほぼ、時を同じくしてヤマトを中心とした古墳時代(前期)が始まり、前方後円墳が全国に波及します。
 これらの一連の歴史における主役級は、ヤマト王家となった出雲勢力と物部勢力です。その勢力バランスを古墳時代中期と比較してみると、圧倒的に物部勢力の比重が高まり、それとともにヤマト出雲勢力の存在感が一気に薄れてゆくことがわかります。この流れを見る限り、出雲勢力が何らかの事情でイズモとヤマトに分裂し、その間隙に物部氏が入り込み祭祀だけでなく武力でも勢力を拡大した図式が浮かんできます。

 このプロセスを『出雲後物部』と表現しています。
(今回の表紙写真:伏見稲荷大社2021年初詣。社務所。守矢。伏見稲荷は秦氏の祖霊祭祀社として創建。秦氏と物部氏は同祖とされる)

 ※国譲りの時期について:1984年に発見され、銅剣358本、銅鐸(どうたく)6個、銅矛(どうほこ)16本が出土した神庭(かんば) 荒神谷(こうじんだに)遺跡(国指定史跡)。遺跡内の焼土(しょうど)調査から導き出された推定成立年代はAD250±80年。【以下、著者の解釈】銅剣・銅鐸・銅矛(威信財(いしんざい))が発見された分の他に、さらに大量に鋳つぶされた可能性が高い(つまり威信の放棄=国譲りのこん跡と考えられる)。【荒神谷遺跡発掘調査概報(3)p31、(10)焼土の科学的総合調査の提案より。熱残留磁気の測定法】
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