54)アラハバキ解(11)遮光器土偶。おわりに
文字数 2,877文字
火は太陽、水は川と海、土は大地。(水は月、土は地球として考えることもできます)
南北に長く東西に狭く、高い山から
太陽は沈みまた昇り、月は満ち欠けしながら多様な季節が進むなか、植物は枯れては芽吹き結実し、生き物は里に下り山に
繰り返される摂理を、神々の意思・
いつかまた、母なる

(写真:頭のない
見えないけれども、いつもそばにあることを感じる精霊の世界(
(※参考画像は『サケ 皮 服』でネット検索すると、見ることができます)
いつかまた、それを目印に、ここに戻ってくれることを祈り、道に迷わぬよう、からだを赤く(明るく)照らした土の人形を埋める。・・・そんな光景を想い浮かべます。
このような観想が遮光器土偶のカタチとなり、道南から北東北で広く共有されたのでしょうか。
遮光器土偶は、

神像は、あの世の長旅から
もしそうであったとすれば、彼女の苦痛を、亡くなった家族や先祖と再会するための
喜びの痛みに変える
働きがあったのかも知れません。想像は膨らむばかりですが、遮光器土偶(アラとハバキの神像)に
亀ヶ岡石器時代遺跡が営まれたBC1000~BC400といえば、西日本から稲作と定住の弥生が始まった時代。列島では一万年以上続いた縄文時代が終わり新時代が始まる頃。
(写真:同じく亀ヶ岡考古資料室。『有名な遮光器土偶よりも後の年代のものです。顔の表現は、遮光器土偶のようなデフォルメされたものとは違い、やや写実的(人間の顔的)です。』と説明されていました。)

このリアルさを見る限り、土偶の目が表現するものは、その名の由来になったエスキモーの遮光器ではないことは明らかです。
たった今、亡くなり、床に横たわる
伝統的な様式を残しながらも、驚くほどのリアルな表現。
万物を深く
覚醒の時代
-の一体のように思います。津軽には紀元前後に稲作が
(写真:左)亀ヶ岡遺跡のある

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海が深い縄文時代、海人の男は長い海と陸の旅路に出る一方、女は子供や年寄りとともに、村で帰りを待つ生活の中から、母系制の文化が育ちます。(第12章)
食料を分かち合い、集団で子育てを行い、誰かが病気やケガの時はお互いに助ける。そういった共助の精神がない限り、一万年以上もひとつの文化が続くことはあり得ません。
火と水と土の土器・土偶づくりを通じて、独特の宗教観が生まれたり、ちょっとした流行(ファッション)とともに移ろいながらも、根源的なものは継承されてゆきます。
弥生時代には、
その過程では、
それとともに言語数が増え、コミュニケーション手段としての記号(文字)も必要になっていったことでしょう。
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より生活に利する現実的で物質的な方向へと物事の考え方が変わり、当然、信仰も変化してゆきます。
底流としての火と水と土の原理は一貫しているものの、コトバと観想する人が増えるに比例して解釈が増え、教義や思想が増え、シンプルだったことが、時間と人とともに複雑化してゆきます。
縄文時代の土器や土偶、弥生時代の
『すべてに繋がっているが埋もれている』
信仰としてのアラハバキを追いかけていて、もちろん本著ですべてを紹介できたわけもなく、現時点で振り返って言えることです。
『アラハバキ』というコトバから入ってしまうと、長い歴史とともに
あまりに埋もれているため
に、次の手がかりを見つけるのが難しくなるかも知れません。しかし、今一度、その原点をよく考え、仮説をたてて観察してゆくと、繋がりそうな「点」が、意外と見つかったりします。
そして「点」を繋いで「線」を引いてみる。
それで(いったん)終わってしまうことも多いですが、しかし、例えば関西に住む私の場合、奈良県
間違いなく、多賀城の荒脛巾神社の参拝だけでは、次の手がかりを見つけることはできず、当然、
本著を始めたものの、最初から見通しや結論があるわけでもなく、それでも何とかここまで書き続けることができました。
今が道半ばなのかどうかもわかりません。ただこれまで書いたことをステップに、また多くの場所を回り、さらに繋いで行きたいと考えています。
お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
【アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る。了】