02)クニウミとアラ

文字数 1,119文字

 本書の副題「汎日本古代信仰」とは、日本列島に時間的にも空間的にも長く、広く浸透していた信仰という意味で使っています。
 そのことを説明するために、少し遠回りになりますが、私の古代史ライフワークとも言えるテーマ・クニウミについて書いてみたいと思います。

国生みと書きますが、イザナギ・イザナミ神話でよく知られています。
 高天原(たかまがはら)の神々から下界に国を造ることを命じられた二神は、授けられた長い天の沼矛(あめのぬぼこ)を海中にさし降ろし、掻きまわすと、矛先からしたたり落ちた潮が、とろとろと積もって於能凝呂島(おのころじま)ができました・・・という話です。

 於能凝呂島(おのころじま)は淡路島といわれています。

 神話を真に受ける人は今の時代にはいませんが、これは、地球規模で起こったある自然現象が日本列島でも起きたことを、間接的にわかりやすく語っています。
 海退(かいたい)という海水面が低下し、海が遠くなる現象です。今は温暖化が懸念される時代ですが、地球全体の気候が寒冷化すると、北極と南極に大きな氷の塊ができ、その分、海水が少なくなります。そういう現象が起きたのが、ちょうど日本列島が縄文から弥生に移る時代。世界全体で海抜が5~6メートル下がりました。
 たかがそれぐらいという話ではありません。島嶼(とうしょ)の多い日本では、それまで人々が住んでいた小高い丘や山のそばにあった海岸線が、5~10キロメートル、場所によっては20キロ近く、遠のいたのです。ただし約一千年をかけてですが、毎年少しずつ海が退いてゆきました。
 海が退いたあとの低地には、かつての海底の土砂が露わになり、そこに川から運ばれてきた土砂が混ざり、(がた)から干潟(ひがた)、そして湿地帯に変わってゆきます。こうして河口は少しずつ下流に移動してゆきながら、川筋に沿った広い範囲に大きな平野を生み出してゆきました。これを沖積平野(ちゅうせきへいや)といいます。
 縄文時代に小高いところの狭い土地で暮らしてきた人々は、水の豊かな広い平野に降りてきて、水田稲作を始めました。弥生時代はそうして始まったのです。かつて縄文の人々が住んでいたところは河岸段丘(かがんだんきゅう)といいます。
 河岸段丘に縄文遺跡、沖積平野に弥生遺跡が見つかるのは、このような理由です。
 弥生時代には水田稲作で収穫、つまり、食糧が増え、人口が爆発的に増えた時代でもあります。
 豊葦原中津国(とよあしはらのなかつのくに)は、葦の原が広がる「中津」つまり、潟からクニが生まれ、大きくなるイメージそのものです。




 弥生時代のクニグニは、コメによる本格的な農業と定住を通して、列島各地に次々に生まれ、発展しますが、それは王(首長)にとってはもちろん、クニの人々にとっても喜び以外の何物でもなかったことでしょう。
 その心象を一文字で表現したのが「アラ」で、古代の人々の言霊(ことだま)でした。
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