52)アラハバキ解(9)四天王寺と太陽祭祀

文字数 2,898文字

 荒陵山(あらはかやま)四天王寺。聖徳太子(厩戸(うまやとの)皇子(おうじ)、以下、太子(たいし))の創建(593年、飛鳥時代)。山号(さんごう)は、古くは荒陵(あらはか)と云われた所に寺院が建てられたことに由来します。

 古代神道を奉じた河内期・物部氏の宗主・守屋(もりや)を滅ぼした丁未(ていび)の乱(587年7月、用明二年)後、太子は戦勝を祈願した四天王を(まつ)る仏教寺院を、現在の大阪城のある石山(いしやま)に創建したようですが((もと)四天王寺、第50章)、現在地(大阪市天王寺区)に建立し直しました。
 その詳しい経緯は不明ですが、おそらく当時の最高権力者であった推古(すいこ)天皇が神道(伝統的な太陽祭祀)の(ひめ)巫女(みこ)であることから、その意向が強く働いたものと推理しています。推古天皇の夫であった敏達(びだつ)天皇は『日祀部(ひまつりべ)私部(きさいべ)』という()(官庁)を置きましたが(日本書紀・敏達6年)、皇后の推古天皇(豊御食(とよみけ)炊屋姫(かしきやひめ))が主管したと考えれば符合します。
 したがって、四天王寺を現在地に創建(再建)する上では、

であったということです。

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 春分と秋分の日に、真ん中に夕陽が落ちる四天王寺・西門(さいもん)石鳥居(いしとりい)。代表的なお寺の鳥居です。鎌倉時代に造られた日本最古のものと考えられています。(撮影は春分に近い日の夕方)


 近くの碑に『大日本佛法最初四天王寺』と刻まれ、扁額(へんがく)には『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』と書かれています。『(四天王寺は)釈迦如来の説法に()(ところ)つまり聖地であり(この西門は)極楽(ごくらく)浄土(じょうど)東門(とうもん)に当たる』。つまり、写真の撮影位置が極楽浄土の東端で石鳥居の向こう(境内)が釈迦の教えの聖地であるということを表現しています。(石鳥居の向こうに見えるのが西大門)


 西大門(にしだいもん)をくぐると、五重塔(南)と金堂(こんどう)(北)が南北に並ぶ四天王寺の中心伽藍(がらん)。手前の門の向こうにまっすぐ、五重塔と金堂の間に置かれた転法輪(てんぽうりん)(せき)、つまり、釈迦の教えのある処に向かいます。


 写真左は現在の転法輪石ですが、1967年の発掘調査で、祭壇のような石の存在が確認されています。(右写真:イワクラ学会、四天王寺「四石」の段階的成立より)


 実は、四天王寺伽藍は、この転法輪石と石鳥居を繋ぐライン、つまり春分・秋分の日の出・日の入の東西ラインを基準にしており、西に約3度傾いて建てられています。
 南北に並んだ四天王寺の仏教伽藍は、もとから、東西の古代神道の太陽祭祀との習合を意識して建てられていたことがわかります。


 さらにこのラインを東に進むと、太子が丁未の乱(587年7月、用明二年)で滅ぼした物部(もののべの)守屋(もりや)(ほこら)(正式には願成就(がんじょうじゅ)の宮)。さて、かつての仇敵(きゅうてき)(ほこら)を、境内の最重要とも言えるライン上に建立した理由は何で、また、誰の意向でしょうか。
 このあたりの考察は谷川健一氏の『四天王寺の鷹』に詳しく、『キツツキの大群となって四天王寺を壊すために襲う守屋の怨霊を、白鷹(しろたか)となった太子の霊が寺を守り

ため、金堂壁面に止まり木が造られた』伝承を紹介しています。

 (江戸期の摂津名所図会(四天王寺・守屋祠)では『太子堂の後ろにあり。今参詣の者、守屋の名を憎むや(つぶて)を投げて祠を破壊す。寺僧これを傷んで熊野権現と(おもて)をうつ。祀る所、守屋(もりやの)大連(おおむらじ)弓削(ゆげの)小連(こむらじ)中臣(なかとみの)勝海(かつみの)(むらじ)の三座なり』と紹介されています)

 問題はこの伝承が暗示することです。
 私の古代史考察は、故郷のここからスタートしましたが、長い間、調べてきてわかってきたことは、四天王寺が建立された古代上町半島(古代の摂津国(せっつのくに))の東側、生駒山に至る広大な河内国(かわちのくに)一帯は、古墳時代(AD200年代後半~500年代)に物部氏が積極的に渡来系移民を入植(にゅうしょく)させ、古代河内湖の低湿地帯を開拓させ、つくり上げた支配地であった、ということです。(第41章、第42章、第50章)
 そういう意味で、キツツキの大群は物部氏の生き残りを意味するのかも知れません。
 太子は本来、天皇に()くほどの血脈と実力を持ちながらそうならず、やがて仏教法王(ほうおう)として相当に聖人化されますが、その理由と原点がここ-

-ではないかと考えたりします。

 本著では第20章から第30章にかけてヤマトと蝦夷(えみし)について書きました。後の奈良・平安時代に意味合いは大きく変わってゆきます(第28章)が、飛鳥時代のヤマトが蝦夷の地に進出した理由のひとつが、物部氏系の一掃ではなかったかと考えています。
 丁未の乱の後、諏訪(すわ)~関東以北に逃げ込んだ物部氏系の古神道文化を脅威に感じたヤマトが、武力とともに太子仏教を移入し、転法輪石の思想で、精神面でもその弱体化を図った可能性があります。
 そのあらわれが、最前線の多賀城(たがじょう)荒脛巾(あらはばき)神社の太子堂(たいしどう)(布教、第4章)や、その波及の結果としての馬頭(ばとう)観音(殺生戒(せっしょうかい)と供養の精神※)、オシラサマ伝承と信仰(古い信仰と新仏教の軋轢(あつれき))であるように思います(第25~26章)
 ※物部氏の古神道では祈雨(きう)止雨(しう)に馬を生贄(いけにえ)に奉じました。馬食(ばしょく)文化((いわい)→ほおり←(ほふ)る)との関係も推定されます。太子は馬をたいへん愛し、物部氏の風習をたいそう憎んだと想像しています。

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 四天王寺は荒陵(あらはか)の山号からアラハバキとの関係が推理されますが、ここで、もう少し具体的に踏み込んで考察してみます。
 四天王寺は現在でも熊野街道の中継点で、また古い時代には石鳥居の近くに、熊野への道標となる熊野王子(おうじ)の社が鎮座していたと伝えられ(近くの堀越神社境内 熊野第一王子之宮 由緒より)、摂津(せっつ)名所(めいしょ)図会(ずえ)で紹介された守屋祠の熊野権現の話は、史実からさほど外れたものではないと思われます。
 熊野信仰は八咫烏(やたがらす)信仰と密接な関係にありますが、実は、四天王寺・東西の太陽祭祀ラインの先、東の生駒山に大鳥=ヤタガラスを見ることができます。
 現在は高層の建物が立ち並び、大阪に住む人でもほとんど見ることもなく気づいていませんが、個人的に昨年引っ越したマンションの踊り場から、春分の日に、生駒山に大きな翼を広げて伏す鳥、その頭から日が昇ることに気づきました。(2021年春分の日撮影。火の鳥。)


 これを見て、四天王寺の東西ラインをさらに10数キロ先の生駒山(いこまやま)まで伸ばしたのが参考地図です。ラインは四天王寺から1.8キロの御勝山(おかちやま)古墳(前方後円墳)の後円部(墓域)中心も通ります。

 従来、荒陵(あらはか)は、四天王寺西側の一心寺(いっしんじ)茶臼山(ちゃうすやま)古墳(前方後円墳)の一帯を指す古地名と考えられてきました(実際、四天王寺の説明もその通り)が、この点、再考する必要を感じています。
 (御勝山古墳は古墳時代中期・仁徳天皇期、茨田堤(まんだのつつみ)(第42章に推定図)の築造に関わった人の古墳と考えられますが不詳、詳細は本著の主旨から外れますので、ここでは事実紹介のみとさせてもらいます。)

 例えば、五重塔に登り何が見えるかを想像してみてください。西に釈迦仏教が発祥した天竺(てんじく)(インド)に繋がる海(後の西方浄土(さいほうじょうど)信仰)、北に北極星(北辰(ほくしん)北斗(ほくと)信仰、妙見信仰)、そして東にヤタガラス(熊野信仰)。方位によってそれぞれの信仰の根源をまとめて眺め観想することができます。
 これが太子の説く『和』の精神なのかも知れません。
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