34)猿田彦が天台の神猿に変えられた所
文字数 1,674文字
比叡山の琵琶湖側の日吉大社 ・西本宮楼門 の神猿 像も含めると、円仁 が遺言とした、猿が辻-赤山禅院 と繋がる『皇城表鬼門 の神猿の結界』が見えてきます。
この結界線の近くにもう一か所、神猿像が置かれているのが幸乃神社 です。猿が辻から東に行き、石薬師御門 を北(左)に折れて今出川通りを渡って数百メートルのところに鎮座しています。御所の猿が辻から見ると、東北の表鬼門の方向になります。(写真は石薬師御門と桜)
(写真:幸乃神社、「皇城鬼門除 出雲路幸神社 」の碑)
一帯は鴨川デルタ地帯(下鴨神社)の西にあたり、幸乃神社は、古代豪族出雲氏の氏神です。
(写真:京都市考古資料館パネルを下敷きに記入)
下鴨神社の正式名が賀茂御祖 神社の通り、出雲族は古代山背国 に早くから入り、デルタ地帯あたりに神域を置いていましたが(葛野主殿県主部 。西暦700年代には山背国愛宕郡出雲郷 の人々)、西暦に入って大和平野から北上してきた同祖の賀茂氏に乗り換えられたこん跡があり、そのことを端的に表すのが、京都市考古資料館の「京都盆地の古代豪族」のパネルです。この一帯は、先住の出雲-鴨族-が守り抜いた地で、したがって幸乃神社には出雲族本来の古い信仰の姿が残されていると考えられます。
幸乃神社の御祭神は猿田彦大神 。相殿に天之御中主神 、天照大神 、瓊瓊杵尊 、少彦名神 、可美葦牙彦舅尊 、大国主命 、事代主命 、天鈿女命 の八柱。
由緒には『日本最古の縁結びの神として知られる当社の祭祀は、遠く神代に始まり、天武天皇の661年に再興、平安京創建時794年に桓武天皇により皇都の東北の鬼門除け守護神として造営された。平安京造営時には社名を出雲路道祖神、江戸時代の初めに幸神社と改名』と書かれています。
猿田彦は出雲地方で男性的な鼻高 の神像として発祥し、現在でも神楽 面として残されています。(写真:下段中央の赤い面が猿田彦。山形県・岩根沢三山 神社の展示・岩根沢大々神楽 面より)
本来、古代出雲のサイノカミ信仰の荒神的な、いわゆる降臨と導きの性格神で、分岐する道(八衢 )の道祖神であるとともに、男性(塞、サイ、陽)と女性(幸、サイ、陰)の出逢い・縁結びと子孫繁栄を導く(家系図の)道祖神であった猿田彦。
このような猿田彦の多面性を考える上で、幸乃神社は、おそらく全国でも唯一の貴重な場所と言えるのではないでしょうか。
なぜなら、平安京の中でも出雲族の信仰が色濃く残った地域の氏神であるゆえに、平安時代より前の猿田彦のサイノカミ・道祖信仰と、平安時代以降の天台宗が主導した厄除け・方除けの祭式が共存するように残されている、つまり、本来、猿とは無関係の猿田彦大神が、後に皇城・京都御所の鬼門を守護する天台宗の神猿に変身させられた歴史を一目で見ることができるからです。
境内の
丸石のカタチは山梨県甲府地方に多数見られる丸石道祖神に通じる気がします。
近くの京都御所の石薬師御門の石薬師は、アラハバキ解では「幸乃神社の石神-せきじん-おせきさん-薬力」が結びついて、名付けられた可能性を考えることができます(第33章・冒頭の表を参照)
一方、本殿内の東北隅には、猿が辻に対応する烏帽子 を被った神猿の木像が安置されているとのことで、そのため、神猿が逃げないように本殿前面に網がかけられています。なお、この神猿像も、猿が辻の木像と同じく赤山禅院の方を向いています。
(写真:(左)幸乃神社本殿前に架けられた烏帽子を被った神猿=三番叟 の絵馬、(右)網がかけられた本殿)
猿田彦は道を通って災厄がやってくるのを見張り、防ぐ『塞 』であるとともに、良いものは通す『幸 』の導きの神という性質があります。
一方、神猿は鬼門(東北)の方向から災厄がやってくるのを見張り防ぐ『天台の結界』の役割を担います。頭の烏帽子は猿田彦の鼻高が形を変えたものであると考えられます。
この結界線の近くにもう一か所、神猿像が置かれているのが
(写真:幸乃神社、「
一帯は鴨川デルタ地帯(下鴨神社)の西にあたり、幸乃神社は、古代豪族出雲氏の氏神です。
(写真:京都市考古資料館パネルを下敷きに記入)
下鴨神社の正式名が
幸乃神社の御祭神は
由緒には『日本最古の縁結びの神として知られる当社の祭祀は、遠く神代に始まり、天武天皇の661年に再興、平安京創建時794年に桓武天皇により皇都の東北の鬼門除け守護神として造営された。平安京造営時には社名を出雲路道祖神、江戸時代の初めに幸神社と改名』と書かれています。
猿田彦は出雲地方で男性的な
本来、古代出雲のサイノカミ信仰の荒神的な、いわゆる降臨と導きの性格神で、分岐する道(
このような猿田彦の多面性を考える上で、幸乃神社は、おそらく全国でも唯一の貴重な場所と言えるのではないでしょうか。
なぜなら、平安京の中でも出雲族の信仰が色濃く残った地域の氏神であるゆえに、平安時代より前の猿田彦のサイノカミ・道祖信仰と、平安時代以降の天台宗が主導した厄除け・方除けの祭式が共存するように残されている、つまり、本来、猿とは無関係の猿田彦大神が、後に皇城・京都御所の鬼門を守護する天台宗の神猿に変身させられた歴史を一目で見ることができるからです。
境内の
石神
さんには、おせきさん
といわれる御神体の陽石が鎮座しています。御神体は猿田彦の高い鼻、つまり、石棒をあらわしていると考えられます。(写真:幸乃神社境内、石神さん)丸石のカタチは山梨県甲府地方に多数見られる丸石道祖神に通じる気がします。
近くの京都御所の石薬師御門の石薬師は、アラハバキ解では「幸乃神社の石神-せきじん-おせきさん-薬力」が結びついて、名付けられた可能性を考えることができます(第33章・冒頭の表を参照)
一方、本殿内の東北隅には、猿が辻に対応する
(写真:(左)幸乃神社本殿前に架けられた烏帽子を被った神猿=
猿田彦は道を通って災厄がやってくるのを見張り、防ぐ『
一方、神猿は鬼門(東北)の方向から災厄がやってくるのを見張り防ぐ『天台の結界』の役割を担います。頭の烏帽子は猿田彦の鼻高が形を変えたものであると考えられます。