35)アラハバキ解(5)福禄寿に書き換えられた猿田彦神

文字数 1,505文字

 特に関東より以北の東北地方には、古神道、つまり、男女一対の概念を根本とするアラハバキ信仰がこん跡として散見され、北部に向かうほど色濃いという印象を抱きます。
 これは平安時代の天台宗が産土(うぶすな)の神々を本地垂迹(ほんじすいじゃく)によって仏(如来(にょらい)菩薩(ぼさつ)明王(みょうおう)(てん)など)に書き換えながら北進したことに対し、奥に進むほど蝦夷の文化の抵抗が強かったことを意味しています。
 オシラサマの伝承はそのような時代背景-

-を内包したものとして解釈できるのではないかと考えています(第25~26章)

 その本地垂迹の主導者であった慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)が、遺言で平安京の鬼門にあたる比叡山の麓に建立させた赤山禅院(せきざんぜんいん)皇城表鬼門(こうじょうおもてきもん) 比叡山延暦寺 塔頭(たっちゅう))には興味深いものが数々残されています。

 境内の地蔵堂(じぞうどう)のそばに奉納されたわらじ。わらじの奉納物の社(御祭神)や堂(御本尊)の信仰はさまざまですが、基本的には道祖神(どうそじん)石神(いしがみ))信仰に端を発し、道中安全(旅行安全)、派生して下半身全般の病気快癒(かいゆ)、さらには「セキジン」の響きから咳封じ、薬力(やくりき)信仰に繋がっているのは、これまで紹介した通りです。


 境内東北の鬼門の福禄寿(ふくろくじゅ)堂。御本尊が福禄寿であることから、赤山禅院は京都の都七福神御朱印巡りのコースになっています。
 禅院の御本尊の泰山府君(たいざんふくん)は地上の姿で、天の姿は北斗(ほくと)に付き従う輔星(ほせい)の化身である福禄寿とされており、赤山禅院ではたいへん重要な神格です。


 堂前の福禄寿神のお姿みくじの奉納物。人形の中のみくじを読んだ後、願い事が叶ったり無事過ごすことができた人たちが、お姿を奉納するのですが、福禄寿の人形が並べられた景色は壮観です。


 長頭(ちょうとう)の福禄寿神が鬼門を守るスタイルは、鼻高(はなたか)の猿田彦神の災いを防ぐ『石神(いしがみ)の陽、塞、さい』の神格に通じ、ここで出雲の猿田彦神が、道教の福禄寿神に変容させられたことを物語っています。円仁の産土(うぶすな)の書き換え、本地垂迹(ほんじすいじゃく)のひとつと考えられます。

 福禄寿神は円仁が唐で触れた道教においては『森羅万象(しんらばんしょう)、万物の命運を(つかさど)る神、占いの大本(おおもと)の神様』であり『泰山府君は陰陽道卜占(おんみょうどう ぼくせん)の祖神』として(あが)められていることから、日本では天台宗の星神(ほしがみ)信仰を起点に陰陽道が発展しました。(『 』は禅院の説明)

 (写真↓:境内・相生宮(あいおいのみや)絵馬(えま)
 日月星辰(にちげつせいしん)鴛鴦吉祥(おしどりきっしょう)として男女の結びを祈願する絵馬ですが、この中にはたくさんの

が込められています。例えば日は陽(男性)・月は陰(女性)・北斗七星が(くく)るものとして描かれています。(菊の御紋の意味するところも考えてみると興味深いですね)


 道教から陰陽道が発祥した中国には、東北に対する特別な考え方はなく、鬼門は日本オリジナルのものと言われています。
 平安京の東北(下鴨)に先住の出雲族が住み(前章)、列島東北地方には蝦夷の人々が住む平安時代、朝廷にとっての東北は

が住む地であり、天台宗はその朝廷が抱えていた脅威の心理を背景に方位卜占の中に「鬼門」という考え方を創造したものと考えることができます。

 前章で猿田彦は三王(さんのう)信仰の神猿(まさる)に変えられたと書きましたが、眷属(けんぞく)とともに神格そのものは、道教の星神・福禄寿に変えられたという方が正確です。

 列島に残っていた数々の産土神を書き換え、アラハバキ信仰を覆った円仁、あるいはその遺言を受けた弟子たちが、本地垂迹にこだわって天台宗的に洗練させた姿(根本道場)が赤山禅院と言えるでしょう。
 ただ本地垂迹ゆえに、日本古来のアラハバキ信仰を下敷きにしている、せざるを得なかった当時の知的エリートらの

が見え、そういったところが歴史を振り返ってもなお興味の尽きないところであります。
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