14)斉明女帝と飛鳥・石神遺跡

文字数 1,467文字

 石神遺跡(いしがみいせき)は、第37代斉明女帝期以降、第40代天武天皇期など、複数の時代の遺構が確認されています。(写真は飛鳥資料館に展示されているジオラマ。飛鳥寺は日本最初の仏教寺院)


 斉明(さいめい)女帝(宝皇女(たからのひめみこ)、治世:655~661)は、後の天智天皇となった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが蘇我入鹿(そがのいるか)を宮中で暗殺して蘇我宗家を滅ぼした乙巳(いっし)の変(645年)の時の皇極(こうぎょく)女帝。第36代孝徳天皇(難波宮)の後、重祚(ちょうそ)しました。息子が天武天皇、その皇后が持統天皇という流れ。実質的に第30代敏達天皇亡き後の大后として院政を敷いた第33代推古女帝(豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ))から始まった飛鳥時代も、第31代用明天皇期・第32代崇峻天皇期が短命で、いわゆる継体-欽明系(第29代)が途絶えた後、天皇に就いた第34代舒明天皇の

の皇后として天皇の座に上り詰めました。

 推古時代、丁未(ていび)の乱(587年)で滅ぼされた物部宗家が担っていたいわゆる古神道が中央で途絶え、聖徳太子(上宮法王)による大乗仏教(だいじょうぶっきょう)が広がり始めた時代ですが、一方で、元来、古神道の巫女である女帝が続いた時期でもあり、神仏習合以前の、神仏混沌の時代でした。

 須弥山石(しゅみせんせき)は、推古女帝の時代、百済(くだら)路子工(みちのこたくみ)が造ったと日本書記に記されています。
 また、斉明女帝の時代には各地の蝦夷、高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)百済(くだら)の外交使節、他に南方の吐火羅(とくわら・とから)舎衛(しゃえ)の漂着民を饗応した離宮(石神遺跡(いしがみいせき))にも置かれたものと考えられています。(写真は飛鳥資料館前庭の石神遺跡から出土したレプリカ。噴水機構を内蔵している)


 ※日本書紀・斉明期の蝦夷関連の記述を抜粋。【 】は参考として現在地名。
 ※粛慎(みしはせ)は擦文文化圏、あるいは、オホーツク文化圏の集団と考えられます
・女帝は「北の蝦夷、東の蝦夷を饗応した(斉明元年)」
・「阿倍比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷に北征。降伏した蝦夷の恩荷(おが)【男鹿】を渟代(ぬしろ)【能代】・津軽二郡の郡領に定め有馬浜で渡島(わたりじま)【道南】の蝦夷を饗応(同・四年)」
・「蝦夷二百余が朝献。特に厚く饗応し位階を授け物を与える(同・四年)」
・「甘檮丘【甘樫丘】の東の川辺【石神遺跡】に須弥山(しゅみせん)を造り陸奥と(こし)の蝦夷を饗応(同五年)」
・「阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は齶田(あぎた)【秋田】、渟代(ぬしろ)【能代】、津軽、胆振鉏(いぶりのくに)【胆振】の蝦夷を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄(しりべしようてい)に郡領を置く。粛慎(みしはせ)と戦って帰り、虜を献じる(同・五年)」
・「阿倍に粛慎(みしはせ)を討たせる。阿部は大河のほとりで粛慎(みしはせ)に攻められた渡島(わたりじま)【道南】の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(からふと)【樺太】まで追って戦い破る(同・六年)」
・「阿倍比羅夫が夷を献じる。石上池(いしがみのいけ)のほとり【石神遺跡?飛鳥京跡苑池?他?】に須弥山(しゅみせん)を作り粛慎(みしはせ)を饗応(同・六年)」

 (写真:北海道大学総合博物館)


 日本書紀には、仏教世界の中心にある聖山(スメール)を(かたど)った須弥山(しゅみせん)と書かれていますが、形態的に縄文以来の信仰の対象となってきた石棒(せきぼう)石神(しゃくじ)の姿そのものです。饗応された蝦夷の人たち(使節)がこの石像と、おそらく斉明女帝の祭祀を見てどのように考え、それぞれの地元に帰ってどのように伝えたのか、想像に難くありません。

 歴史の面白いのは、ヤマト政権の蝦夷浸透策のツールとして利用したはずの石神(しゃくじ)の信仰に斉明女帝が感化(魅了?)されたかも知れない点です。あるいは、斉明女帝は(モノノベの古神道に対する)新しい時代の神道を、古来からの石神(しゃくじ)の信仰に見出した可能性があります。
 少なくとも日本最初の仏教寺院である飛鳥寺に隣接して石神(しゃくじ)を模した須弥山石(しゅみせんせき)を置いた意味を、あらためてよく考えてみるべきかと思います。
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