石神遺跡は、第37代斉明女帝期以降、第40代天武天皇期など、複数の時代の遺構が確認されています。(写真は飛鳥資料館に展示されているジオラマ。飛鳥寺は日本最初の仏教寺院)
斉明女帝(
宝皇女、治世:655~661)は、後の天智天皇となった
中大兄皇子と
中臣鎌足らが
蘇我入鹿を宮中で暗殺して蘇我宗家を滅ぼした
乙巳の変(645年)の時の
皇極女帝。第36代孝徳天皇(難波宮)の後、
重祚しました。息子が天武天皇、その皇后が持統天皇という流れ。実質的に第30代敏達天皇亡き後の大后として院政を敷いた第33代推古女帝(
豊御食炊屋姫)から始まった飛鳥時代も、第31代用明天皇期・第32代崇峻天皇期が短命で、いわゆる継体-欽明系(第29代)が途絶えた後、天皇に就いた第34代舒明天皇の
後妻
の皇后として天皇の座に上り詰めました。
推古時代、
丁未の乱(587年)で滅ぼされた物部宗家が担っていたいわゆる古神道が中央で途絶え、聖徳太子(上宮法王)による
大乗仏教が広がり始めた時代ですが、一方で、元来、古神道の巫女である女帝が続いた時期でもあり、神仏習合以前の、
神仏混沌の時代でした。
須弥山石は、推古女帝の時代、
百済の
路子工が造ったと日本書記に記されています。
また、斉明女帝の時代には各地の蝦夷、
高句麗・
新羅・
百済の外交使節、他に南方の
吐火羅と
舎衛の漂着民を饗応した離宮(
石神遺跡)にも置かれたものと考えられています。(写真は飛鳥資料館前庭の石神遺跡から出土したレプリカ。噴水機構を内蔵している)
※日本書紀・斉明期の蝦夷関連の記述を抜粋。【 】は参考として現在地名。
※
粛慎は擦文文化圏、あるいは、オホーツク文化圏の集団と考えられます
・女帝は「北の蝦夷、東の蝦夷を饗応した(斉明元年)」
・「
阿倍比羅夫が蝦夷に北征。降伏した蝦夷の
恩荷【男鹿】を
渟代【能代】・津軽二郡の郡領に定め有馬浜で
渡島【道南】の蝦夷を饗応(同・四年)」
・「蝦夷二百余が朝献。特に厚く饗応し位階を授け物を与える(同・四年)」
・「甘檮丘【甘樫丘】の東の川辺【石神遺跡】に
須弥山を造り陸奥と
越の蝦夷を饗応(同五年)」
・「阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は
齶田【秋田】、
渟代【能代】、津軽、
胆振鉏【胆振】の蝦夷を集めて饗応し禄を与える。
後方羊蹄に郡領を置く。
粛慎と戦って帰り、虜を献じる(同・五年)」
・「阿倍に
粛慎を討たせる。阿部は大河のほとりで
粛慎に攻められた
渡島【道南】の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を
幣賄弁島【樺太】まで追って戦い破る(同・六年)」
・「阿倍比羅夫が夷を献じる。
石上池のほとり【石神遺跡?飛鳥京跡苑池?他?】に
須弥山を作り
粛慎を饗応(同・六年)」
(写真:北海道大学総合博物館)
日本書紀には、仏教世界の中心にある聖山(スメール)を
象った
須弥山と書かれていますが、形態的に縄文以来の信仰の対象となってきた
石棒、
石神の姿そのものです。饗応された蝦夷の人たち(使節)がこの石像と、おそらく斉明女帝の祭祀を見てどのように考え、それぞれの地元に帰ってどのように伝えたのか、想像に難くありません。
歴史の面白いのは、ヤマト政権の蝦夷浸透策のツールとして利用したはずの
石神の信仰に斉明女帝が感化(魅了?)されたかも知れない点です。あるいは、斉明女帝は(モノノベの古神道に対する)新しい時代の神道を、古来からの
石神の信仰に見出した可能性があります。
少なくとも日本最初の仏教寺院である飛鳥寺に隣接して
石神を模した
須弥山石を置いた意味を、あらためてよく考えてみるべきかと思います。