12)アラを追ってわかるヒスイの孔の理由

文字数 1,349文字

 縄文時代、食糧確保が安定し、定住形態とともに「火」と「水」と「土」でダイナミックな世界観を表現する土器がたくさん出現した豊かな中期(約五千年前)以降に、「アラ」の概念は人々の思考の中で明確になってゆきました。
 その概念は、活発な海路と陸路の交易を通して「伝播」し、火焔型土器などの流行(ファッション)に見られるように、地域ごとに「洗練され継承」されて行ったものと考えられます。
 近年の考古学の知見、縄文の母系制社会の特徴から考えて、「伝播」は移動の男性、「洗練・継承」は集落定住の女性がそれぞれ担った社会だったと考えられます。(写真は富山県立埋蔵文化財センター・パネル)






「アラ」の概念がいつ頃から芽生えたのかという疑問に対して、竈の荒神・三方さんから逆算して「縄文時代から」と考える理由を解説しました。

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 後に、弥生時代から古墳時代にかけて起きた海退のクニウミとクニビキの原風景から(第2章)、古神道の「アラ」、荒御魂が興り、さらに飛鳥時代から平安時代にかけての神仏集合の渦の中、屋内外の「竈の荒神」に概念化して行きました。(現代神道で、荒御魂に対応して説明される和御魂は、早くても平安時代以降の神道再興の文脈の中で考えることでしょう)

 ご覧のように、多くの竈の三方さんの中心に「(あな)」があり、生命が誕生する様子を宝珠が象徴しています。
 このあたりのデザイニングには、天才・空海さん(弘法大師)が関わったものと推察されます。真言密教は当時、最先端の総合科学であったからいち早く「見える化」に取り組みました。そして三面六臂の三宝荒神としても神像化されました。(第9章)
 御真言(ごしんごん)は『オン・ケンバヤ・ケンバヤ・ソワカ』。ケンバヤは「剣婆(乾婆)」、サンスクリット語に由来し、地の揺れ(地震)を意味します。つまり、三方さんは土が火と水の作用で

、内で生命を育み、孔を通って命が()れます(=生まれる)イメージを表しています。

 ここでもう一度、縄文の人々が万物が土から生まれる思想を持っていたことを振り返ります。

 なぜ出土するヒスイの珠には、例外なく「(あな)」が開けられているのでしょうか?
 (写真は長者ヶ原遺跡、新潟県埋蔵文化財センター資料より。縄文時代、硬玉ヒスイの大珠・小珠は糸魚川産が全国に流通しました。)



 

を厳密に表現するために、たいへんな時間と技術を要して、非常に硬いヒスイに、あちら側からこちら側へ通じる「孔」を開けていたと理解することができます。むしろ「孔」が開けられたものでなくては、縄文の日本列島を流通するほどの価値はなかった、ただの石ころだったと言ってもよいでしょう。

 さらに振り返って、竈の三方さんをデザイニングした人は、そのようなはるか古代の哲学を十分に理解していたことを示しています。となれば、それはやはり空海さん以外には考えにくいのです。空海さんが山林修行に入り留学生として入唐するまでの約10年間、その足跡の詳細は不明ですが、四国~紀伊半島の中央構造線に沿った水銀朱(すいぎんしゅ)の産地周辺の事跡が多く、つまり、それは当時まだ山奥に居住していた縄文血統の人々との深い交流を示唆しているからです。これらの地方の縄文の人々は()といわれた水銀朱(すいぎんしゅ)をよく利用していました。

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