47)キングメーカー・河内の物部氏
文字数 2,568文字
古墳時代前期(AD200年代後半~300年代半ば)は三輪山 の麓のヤマト出雲王家の時代として始まります。
図はその主な前期古墳の分布図ですが、わずか百年の間に、陸奥 (東北)を除く列島全土に前方後円墳が、まるでブームのように一気に造営されました。(資料:明治大学博物館 雪野山 古墳展(2019年秋)展示パネル写真に筆者が大空白域を描画)

前期古墳のほとんどが、弥生の海退 期で生まれた新しい平野の奥の段丘 (かつての水際線 )に造営されていることから、当時のヤマト王権の影響範囲と、その権威のもとにクニ造りが行われたこん跡として俯瞰 できると思います。
弥生の海退期とはBC5,000~AD±0の5,000年間に海抜が約5m低下して現在の海抜水準となった全地球的現象で、列島では弥生時代(BC1,000~AD250)に、かつての水際線だった段丘から下流域に向けて5~20キロ幅で河川の土砂堆積で形成された沖積平野 が各地に出現し、扇状地 化を始まりとしてぐんぐんと面積をひろげました(大阪の例は第40章を参照)
マップの大空白域が、かつての縄文文化が発展したところであることから、人々が川と海に近い新平野-豊葦原瑞穂国 -に
新しいクニの領土となる新平野を見晴るかす段丘に、日の出の三輪山と日の入の大和二上山 というヤマトのシンボルをあらわす(第46章)前方後円墳を描き、ヤマトの王のやり方(太陽と水の祭祀)に倣 って、それぞれの新開地でクニづくりを進めたイメージは、当時の列島の国家観と祭祀観、地方のクニの統治観を考えるのによい材料だと思います。
ただ前方後円墳の波及は、それがヤマト出雲王家の圧倒的な体制のもとで行われたのではなかったであろう点を理解することも、次の古墳時代中期から後のヤマトの政治的ダイナミクスを理解する上でのポイントになります。
図は第19章の再掲ですが、出雲王家、物部氏 、大伴氏 の勢力エリアと前方後円墳の分布に注目してください

三輪山麓の出雲王家を、物部氏(石上 、石上神宮)、大伴氏(磐余 ・飛鳥 )が挟んでいます。
三者とも北九州(糸島 周辺)に端を発し、瀬戸内海を通ってヤマトに参入してきたグループで、この位置関係は王家を補佐する物部氏と大伴氏の役割をあらわしています。
出雲王家は姫巫女 の太陽祭祀を主催し、それに対して物部氏は前方後円墳を積極的に造営し、祭祀に深く関わっていたことを示しています。
一方、大伴氏のエリアには前方後円墳は(なんと!)ゼロで、王家の祭祀には一定の距離、物部氏にはさらに距離を置いていたことがうかがえます。第18~21章で紹介しましたが、大伴氏は縄文海人(アド)の血統で、大王家の列島交易と近衛 ・近侍 (随身 )としての重責を担っていた氏族です。
古墳時代前期までは、この三者の勢力バランスが均衡し、安定した体制のもとで、祭祀に基づくクニづくりが全国各地で進みましたが、古墳時代中期にはその様相が一変します。
AD300年代の後半から始まる古墳時代中期は、およそ第15代応神天皇から第25代武烈天皇までの倭 の五王 時代(讃 ・珍 ・済 ・興 ・武 )と重なります。
(第14代仲哀天皇は山口県下関市に殯葬所 、大阪府藤井寺市に宮内庁治定 の岡ミサンザイ古墳(恵我長野西陵 )があり、改葬の可能性も考えられますが、詳細不明のため、河内巨大古墳の天皇にカウントしていません)
倭の五王という中国側の呼び名が示す通り、時の中国王朝への朝貢外交が日本側から積極的に行われていた時代でもありました。
大和から河内への大王の古墳群の移動、国の支配者としての権威を積極的に中国王朝に求めた国内情勢から考えて、AD300年代に入ってヤマト内の支配構造の急激な変化と混乱があったことがうかがえます。
その背景には、この時代に河内に拠点を広げた物部氏が深く関与していたであろうことが十分に想像できます。
第41・42章(ヒスイのモノづくり史観)で書きましたが、ヤマトで石上 (奈良県天理市布留)を拠点にヤマトの軍事・祭祀を支配していた物部氏は、大和川(南から)と淀川(北から)の土砂堆積で水際線 が後退し、巨大な新開地 として発展しつつあった古代河内湖の、東岸の生駒山麓~南岸(ウォーターフロント、黄色線)~古代上町半島を支配下に置き、瀬戸内海・難波津の住吉から大和に至る物流網も掌握していたようです。(第41章・地図再掲)

当時、朝鮮半島南部にあった国際マーケットにおけるヒスイと鉄の取引を長期安定的に行い、物部氏が新しい河内の国で、急増する鉄の需要に対する供給網を支配し、権力基盤を固めようとしたことが朝貢外交の第一の目的であったように思います(第41章)
そして、急速に発展するクニづくり・モノづくりに必要な先進の技術を持つ人材集団を、半島のネットワークを介して積極的にリクルートし・・・つまり、後の日本古代史の重要変数となる秦氏 (弓月君 )、東漢氏 (阿知使主 )などの渡来系氏族を朝鮮半島経由で呼び込み、河内~大和に定住させ、帰化させた(応神期)というシナリオに繋がります。
このシナリオに合わせて考えていますと、第13代成務天皇(佐紀石塚山古墳(奈良市山陵町)治定)と第14仲哀天皇の間に、活動した地域的また時間的に
つまり、このあたりを古墳時代前期の終末期として考えると、物部氏が主体となって、出雲王家に取って代わる新たな権力支配構造を求め、第14代仲哀天皇、第15代応神天皇を河内に呼び込んだものと疑っています。
前方後円墳の築造を通して王家が権威をあらわし、背後で経済的な実利を得るというヤマトで培 われたキングメーカー的な立場を、物部氏は、新たな血脈を畿内に呼び込み、出雲王家にとって代わる王家を擁立し、自らの基盤をより強固なものにしようとしたものと推理しています。
そう考えることで、前方後円墳が古墳時代中期に、突然、河内で巨大化した理由が、河内期・物部氏が興隆した理由と関連して見えてきます。
図はその主な前期古墳の分布図ですが、わずか百年の間に、

前期古墳のほとんどが、弥生の
弥生の海退期とはBC5,000~AD±0の5,000年間に海抜が約5m低下して現在の海抜水準となった全地球的現象で、列島では弥生時代(BC1,000~AD250)に、かつての水際線だった段丘から下流域に向けて5~20キロ幅で河川の土砂堆積で形成された
マップの大空白域が、かつての縄文文化が発展したところであることから、人々が川と海に近い新平野-
下りて行って稲作と定住を始めた弥生時代
と、それ以降の人口動態として見ることもできます。新しいクニの領土となる新平野を見晴るかす段丘に、日の出の三輪山と日の入の
ただ前方後円墳の波及は、それがヤマト出雲王家の圧倒的な体制のもとで行われたのではなかったであろう点を理解することも、次の古墳時代中期から後のヤマトの政治的ダイナミクスを理解する上でのポイントになります。
図は第19章の再掲ですが、出雲王家、

三輪山麓の出雲王家を、物部氏(
三者とも北九州(
出雲王家は
一方、大伴氏のエリアには前方後円墳は(なんと!)ゼロで、王家の祭祀には一定の距離、物部氏にはさらに距離を置いていたことがうかがえます。第18~21章で紹介しましたが、大伴氏は縄文海人(アド)の血統で、大王家の列島交易と
古墳時代前期までは、この三者の勢力バランスが均衡し、安定した体制のもとで、祭祀に基づくクニづくりが全国各地で進みましたが、古墳時代中期にはその様相が一変します。
AD300年代の後半から始まる古墳時代中期は、およそ第15代応神天皇から第25代武烈天皇までの
河内巨大古墳の時代
に相当し、(第14代仲哀天皇は山口県下関市に
倭の五王という中国側の呼び名が示す通り、時の中国王朝への朝貢外交が日本側から積極的に行われていた時代でもありました。
大和から河内への大王の古墳群の移動、国の支配者としての権威を積極的に中国王朝に求めた国内情勢から考えて、AD300年代に入ってヤマト内の支配構造の急激な変化と混乱があったことがうかがえます。
その背景には、この時代に河内に拠点を広げた物部氏が深く関与していたであろうことが十分に想像できます。
第41・42章(ヒスイのモノづくり史観)で書きましたが、ヤマトで

当時、朝鮮半島南部にあった国際マーケットにおけるヒスイと鉄の取引を長期安定的に行い、物部氏が新しい河内の国で、急増する鉄の需要に対する供給網を支配し、権力基盤を固めようとしたことが朝貢外交の第一の目的であったように思います(第41章)
そして、急速に発展するクニづくり・モノづくりに必要な先進の技術を持つ人材集団を、半島のネットワークを介して積極的にリクルートし・・・つまり、後の日本古代史の重要変数となる
このシナリオに合わせて考えていますと、第13代成務天皇(佐紀石塚山古墳(奈良市山陵町)治定)と第14仲哀天皇の間に、活動した地域的また時間的に
明らかな隔絶
があることに気づきます。これがちょうど上で述べた『AD300年代のヤマト内の支配構造の変化と混乱』の時期に符合します。つまり、このあたりを古墳時代前期の終末期として考えると、物部氏が主体となって、出雲王家に取って代わる新たな権力支配構造を求め、第14代仲哀天皇、第15代応神天皇を河内に呼び込んだものと疑っています。
前方後円墳の築造を通して王家が権威をあらわし、背後で経済的な実利を得るというヤマトで
そう考えることで、前方後円墳が古墳時代中期に、突然、河内で巨大化した理由が、河内期・物部氏が興隆した理由と関連して見えてきます。