51)アラハバキ解(8)住吉大社と仁徳天皇陵の祭祀空間

文字数 2,529文字

 前章で、古墳時代中期の前方後円墳を、物部の十種神宝(とくさのかんだから)の祭祀で、葬られた大王(おおきみ)が再び御荒(みあ)れ-巡る太陽のように復活・蘇生-する墓として考察しましたが、そのように考える理由を、住吉大社と仁徳天皇陵の例で紹介したいと思います。

 古代交通路のハブ、古代上町半島(うえまちはんとう)の南端、難波の海の奥深い入江の良港(津)の住吉に(やしろ)が創建されたのは、標高地形図や歴史(第40章・太陽祭祀の東遷(とうせん)、第44章・ヤマト創世記)から考えて、石山(いしやま)生國魂(いくたま)神社(第50章)と同じころ、紀元前後からAD100までの間ではないかと推理しています。



 ご存知のように現在の摂津国(せっつのくに)一之宮(いちのみや)住吉大社(すみよしたいしゃ)は、東西に第一(底筒男命(そこつつおのみこと))・第二(中筒男命(なかつつのおのみこと))・第三(表筒男命(うわつつのおのみこと))の本宮(ほんぐう)が一直線に並ぶ配置です。
 しかし、色別標高地図に描きこんだように、第一・第二・第三本宮ができる以前から、ここには南北を結ぶ、始まりの出雲的な祭祀空間(宗像(むなかた)三女神)があったのではないかと、境内を歩きまわり調べていた時期がありました。
 そんな時に大海神社(だいかいじんじゃ)で、かつては大学の文学部教授で、ご引退後も住吉に月詣りを欠かさないというご老人に出逢い、ご自分の研究テーマでもあったという摂州住吉宮地全図(せっしゅうすみよしのみやちぜんず)(江戸後期、1827年、住吉大社の観光ガイドマップ)のコピーをいただきました(持参しておられた。後に、通常非公開の貴重な地図であることを知りました。)


 ご覧のように、摂州住吉宮地全図は、東西に並ぶ本宮(赤色)はもちろんですが、境外社にまで視野を広げて、南北に繋がるライン(黄色)を意識して描かれていることがわかります。


 この図を現代地図に当てはめてみると、やはり南北ラインは、第一本宮を含めて、直線で並んでいることがわかります。(90度回転して上が北)


 各史跡を説明します。①大海神社は第19章で紹介しました(摂社、海人族の古い神社)

 ②奥の天神・生根(いくね)神社(少彦名命(すくなひこなのみこと))境内の種貸神社は、住吉大社の種貸(たねかし)社の元社
 (写真:左)住吉大社から生根(いくね)神社。中)種貸(たねかし)神社、種貸の種は稲モミ、稲モミからの子孫繁栄祈願。右)男性と女性を象徴する神明穴立石(しんめいあなたていし)、江戸期に男女の滋養強壮・回春(かいしゅん)薬として流行した何首鳥(かしゅう)の刻字。)


 ③種貸社(倉稲魂命(うがのみたまのみこと))は、楠珺社(なんくんしゃ)宇迦魂命(うがのみたまのみこと))と浅澤社(あさざわしゃ)市杵島姫命(いちきしまひめのみこと))とともに宗像三女神の祭祀を構成。現在では大蔵社(おおとししゃ)大歳神(おおとしのかみ))を含めた四社を毎月最初の辰(龍)の日に巡る『初辰(はったつ)まいり』で知られています。三社はもともと宗像ラインで並んでいたものが、古墳時代中期(仁徳期)の本宮創建で、それぞれ現在地に(うつ)されたと推理しています。
 (写真はいずれも種貸(たねかし)社:1)種貸社。拝殿前のお百度石は男性陽石のカタチ。2)住吉の生根(いくね)神社あたりは一寸法師の発祥地=子宝・出産を象徴する手水舎(てみずや)。3)男女をあらわす種貸像。4)種貸人形)


 ④『中津』と考えられる楠珺社のそばに『おたき道』の道標とその先に御滝(おんたき)の社(罔象女神(みつはのめのかみ))(現在は立入禁止)が鎮座しています(中津=タキツヒメ=おたき様、第49章)
 (写真:左)楠珺社(なんくんしゃ)の招き猫。中)おたき道の道標。右)この先に御滝の社)


 ⑤住吉大社の石舞台は、四天王寺の石舞台、厳島(いつくしま)神社の板舞台とともに『日本三舞台』とされます。秀吉の息子、豊臣秀頼(ひでより)の寄進によるものですが、上記・罔象女神(みつはのめのかみ)の御滝の社の至近であり、水にかかわる祭祀場であった所と考えられます。


 ⑥神主館(かんぬしのやかた)は、住吉大社の津守(つもり)氏居館であったところで、現在は住宅地の中、国史跡『住吉行宮(あんぐう)跡』として保存されています。色別標高図で見ると住吉津の入江の入口の南の岬にあたるところにありました。後村上(ごむらかみ)天皇(第97代、南朝第二代)の崩御(ほうぎょ)地。明治天皇も行幸(ぎょうこう)。保存地(玉垣の範囲)は一部と説明されています。


 *****

 そもそも現在の住吉大社(第一・第二・第三、そして神功皇后(じんぐうこうごう)の第四本宮)は、北九州から瀬戸内海を渡ってきた応神(おうじん)天皇系の社で、つまり古墳時代中期、おそらく河内期・物部(もののべ)氏の間接支配がピークとなった仁徳天皇期に、ふるい先住の出雲(いずも)の南北祭祀ラインに、東西の本宮ラインが被せられるカタチで創建されたと考えています。
 私が、古い大きな神社に共通する傾向として、出雲(いずも)(のち)物部(もののべ)(第48章)を考えるに至った現場です。

 なぜ仁徳天皇期と考えるのか?
 その理由は次の地図にあらわれています。


 住吉大社の考察と、摂州住吉宮地全図(せっしゅうすみよしのみやちぜんず)から導き出した南北ラインを、そのまま南に伸ばして行くと5.3キロ先の仁徳天皇陵の後円部(こうえんぶ)中心、つまり墓域中心をピタリと指しています。
 (資料写真:後円部の石室が墓域中心。(ちか)飛鳥(あすか)博物館 巨大模型)


 もちろん、私はこの事実を単なる偶然とは考えません。
 男女一対・子孫繁栄(生根=稲から五穀豊穣も。ゆえに一粒万倍)を徹底して祈願する『奥の』生根神社および種貸社に魂が生まれ(よみがえり)、種が実を結ぶように、小さな人(一寸法師=少彦名神(すくなひこなのかみ))の魂となり、住吉大社宮司(ぐうじ)祈祷(きとう)の導き(神主館)により、道を間違えず(方違(ほうちがい))、墓域に戻り、魂(王の意識)は再生する・・・そんな

が構築されていたのではないかと考えるからです。

 そして、王が目覚めた時、かつて夢見た豊かな新しいクニが古墳の周りに生まれ、人々の営みがますます盛んになっている。大王の墓が巨大であればあるほど、大規模な土木灌漑(どぼくかんがい)の造成工事によって水田(すいでん)と居住地が生まれ、より多くの人々を養い、モノづくりが発展している。

 物部氏が十種神宝(とくさのかんだから)にこめた祈りは、復活(=不老不死)の祭祀とあわせて、豊かなクニづくりの手順を緻密に計算した設計図(シナリオ)であったと考える次第です。

 このように考察を進めていますと、物部氏というのは、海外の交換マーケットでの等価交換を通して(第41章)、経済や物流、海外情勢・外交に通じ、国内では時の政治・経済において自らの利益の最大化を求めた、きわめて戦略・戦術的で、唯物(ゆいぶつ)的な思考をする氏族ではなかったかと考えたりします。

 ※なお本章の考察は、住吉大社と仁徳天皇陵の一例によるもので、今のところ、他の同時代の巨大前方後円墳での類似例は見出していませんこと追記しておきます。出雲後物部は、上賀茂・下鴨神社、諏訪大社などでも確認しています。
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