45)アラハバキ解(6)三輪山のサイノカミ空間

文字数 2,434文字


 弥生中期(BC200~・中期中葉、唐古(からこ)(かぎ)の始まり)に出雲族がヤマト平野に入場した早い段階で三輪山は稲作のクニ造りに関する

の中心となったと考えられます。
 太陽祭祀に関しては、右の写真(2月上旬撮影)からわかりますが、3月の春分(9月秋分にも)には左(北)の三輪山山頂からの日の出となります(手前は箸墓(はしはか)古墳)。
 また纏向(まきむく)遺跡居館跡(宮殿跡)からだと、冬至の時期に山頂から日が上るように見えます(第44章)



 三輪山へは、大神神社本殿から山の辺の道(やまのべのみち)を通って、狭井(さい)神社(大神(おおみわ)神社摂社)で入山申請をして登拝(とうはい)します。
 (山の辺の道の途中。左:磐座(いわくら)神社、中:同説明板、右:久すり道)


 狭井神社の正式名は狭井坐大神荒魂神社(さいにいますおおみわあらみたまのかみのやしろ)。(別称:花鎮社(はなしずめのやしろ)。春花が飛び散るころ(新暦の3月~5月上旬)、疫病が流行(はや)るのを(しず)めるとの意。その内容から第11代垂仁(すいにん)天皇の創建と云われます)
 境内の拝殿脇に、飲めば万病に効くという御神水の湧く薬井戸(くすりいど)(写真右)


 途中の()すりの道、磐座(いわくら)神社(御祭神:少彦名神(すくなひこなのかみ)、医薬の神)、そして狭井神社の薬井戸・・・一帯にはこれでもかというぐらい、医薬と健康祈願の信仰が集積しています。大神神社は酒造守護の社としても有名ですが、出雲文化では酒造は和薬のうちとして一体で捉えられていたと考えられます。また酒は「サカ」の飲み物としてサイノカミ信仰と関連付ける説もあります。

 狭井神社は三輪山登拝口でもあり、世俗と御神域の(さい)(さい))に鎮座し、疫病などの良くないものを「塞」ぎ、「幸」、健康・子孫繁栄・豊穣をもたらすサイノカミ信仰の様式を備えています。

 サイノカミ信仰は良いものも良くないものもそこを通ってやって来るという意味で、道や川の信仰と結びつき伝承されました。(第16章:飛鳥のフナト川)
 本著ではアラハバキ信仰の要素として、男性シンボルの道祖神・塞の石神(せきじん)(縄文の石棒(せきぼう)立石(たていし))が薬力(やくりき)信仰と関連した姿を実例をあげて紹介しました。(第6章:多賀城(たがじょう)市・荒脛巾(あらはばき)神社)(第30章:出土した縄文石棒のオシャモジ信仰)(第32章:伏見稲荷の薬力社)(第34章:京都下鴨・幸乃神社(さいのかみやしろ)
 狭井神社を含む辺津磐座(へつのいわくら)一帯では、磐座神社の御神体(上に写真)は、幸乃神社の道祖神(サルタヒコ)の石神さんに丸石状のカタチ・サイズが

しています。

 狭井神社は主神が大神荒魂神(おおみわあらみたまのかみ)、配神が大物主神(おおものぬしのかみ)媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)事代主神(ことしろぬしのかみ)の計五柱。

 大神(おおみわ)荒御魂(あらみたま)は、大神神社の御神体の大物主神の和魂(にぎみたま)(つい)であると考えられるかも知れませんが、出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)(第44章)に「(大物主神)自らは出雲大社(八百丹杵築宮(やおにきつきのみや))に鎮座する」とされており、大物主が大国主(おおくにぬし)であれば、国譲りによって自らを幽冥界(ゆうめいかい)の主として封じ込めたという伝承とは矛盾し、三輪山に鎮座しているとは考えにくいと思っています。
 となれば、残りの配神三柱の荒魂と考えるのが自然かも知れません。話を整理しておくと、出雲の事代主(ことしろぬし)三島溝咋(みしまみぞくい)の娘・勢夜多々良姫(せやたたらひめ)三島溝樴姫(みしまみぞくいひめ)玉依媛(たまよりびめ))の娘が媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)(初代神武(じんむ)天皇の皇后。第40章)ということになります。しかし、狭井神社は江戸期には伝承だけで廃絶していたものを明治期に復興した経緯があり、配神が時の史観解釈により変えられている可能性はゼロではありません。
 私はむしろ大神の荒魂を神の御生(みあ)れ・御荒(みあ)れした姿(第3章)、磐座神社の御神体を男性的な道祖神「塞」とセットで考えることで、出雲の女性的な「幸」の神と考えています。(磐座神社の御神体は本来はサルタヒコではないかと推理しています)

 三輪山の水の祭祀を考える時のポイントは山頂付近に源を発し、中津磐座(なかつのいわくら)近くで滝(禊のお滝場)になり、檜原(ひはら)神社に向かう山の辺の道を横切って下る狭井川(さいかわ)です。
 麓の辺津磐座(へつのいわくら)、山腹の中津磐座、山頂の奥津磐座(おくつのいわくら)は、宗像(むなかた)三女神(道主貴(みちぬしのもち)、通行の巫女神(みこがみ)、沖津宮・中津宮・辺津宮)と同じ祭祀様式ですが、三地点は登拝道とともに狭井川で繋がっています。繰り返しますが、サイノカミ信仰は道と川、通行の信仰と密接に関係しています。
 狭井川は、狭井神社から檜原神社に向かう山の辺の道、ちょうど中間あたりの月山(がっさん)日本刀鍛練道場(桜井市茅原(ちわら))のそばを流れます。小さな水路のようで、古い案内板が立てられていますが、道から離れているため、ほとんどの人は通り過ぎてしまいます。
 しかし短い案内板には三輪山の歴史を考える上で大変重要なことが書かれています。
 (狭井川の道標と出雲屋敷の説明)


 当社の御祭神・大物主神の御子・伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)の御住居は狭井川のほとり、この地域にあったと伝える(古事記) 狭井とは山百合(やまゆり)のことであり、初夏には一帯に可憐な花を咲かせる。またこの地は古来より「出雲屋敷」といわれ、我が国の建国にかかわる極めて重要な場所である。大神神社
 (姫蹈韛五十鈴姫命を象徴するヤマユリ(狭井、笹ゆり)の花。三輪山麓にて。6月上中旬が見ごろ)


 伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)は、初代神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)です。書かれているのはいわゆるヤマト創世記の大王家とされる出雲屋敷と住んでいた姫巫女に関する伝承です。
 茅原(ちわら)の出雲屋敷伝承地あたりは総じて湿潤で三輪山水系の辺津、つまり、植物がよく繁る水の集積地・湧出地であると考えられます(ゆえに茅原)
 (左:いずれも茅原の出雲屋敷伝承地付近。狭井川付近から三輪山。右上:大神神社末社・貴船(きふね)神社。右下:八大龍王弁財天大神 龗神(おかみのかみ)神社)


 本章と前章では、伝承や史料に基づき、三輪山の太陽祭祀と水の祭祀を考察してきました。
 三輪山はヤマト創世記の舞台にふさわしく

した聖地でありました。
 冒頭の

・大神神社の三輪山に登る日輪の意匠(デザイン)と、

箸墓(はしはか)古墳のカタチに共通点があることに気づいた方もおられると思います。
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