42)ヒスイのものづくり史(6)浮かび上がる河内期・物部氏

文字数 2,432文字

 三国志魏書東夷伝(さんごくしぎしょとういでん)弁辰条(べんしんじょう)に記述されている通り、AD200~300年代ごろ、韓半島南東部の弁辰(伽耶(かや)を含む新羅(しらぎ)の地域)に鉄を介した国際マーケットが存在し倭人も参画していたとすると、倭人の正体は誰で、何を取引していたのでしょうか。

 このことを考察するために、ヒスイのものづくり史観で、別の『点』を見つけ、時間と地域を繋ぐ『線』を引いてみます。

 古墳時代後期(AD500年代以降)、後の飛鳥時代を拓く世代の系図をつくった第29代欽明天皇の皇子、第30代敏達(びだつ)天皇。別称は渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)
 (図:欽明(きんめい)系図。天皇在位期間は水色枠。飛鳥時代は崇峻(すしゅん)天皇~推古(すいこ)女帝から始まる。欽明の父上が第26代継体(けいたい)天皇(ヲホド王)。よって継体は敏達の祖父(おじいさん)であり聖徳太子の曽祖父(ひいおじいさん)



 敏達天皇は硬玉(こうぎょく)ヒスイ、あるいはヒスイが採れる姫川(ひめかわ)(新潟県)を意味する『渟中(ぬな)』の名を持つ、神渟名川耳天皇(かむぬなかわのすめらみこと)(第2代綏靖(ようぜい)天皇、第40章)に次ぐ、歴代二人目の天皇です。
 『太珠(ふとたま)』は大きな勾玉(まがたま)、万葉集では『珠敷(たまし)く』はお客様を迎える美しい邸宅のことですから、渟中倉(ぬなくら)は天皇の宮殿、まとめると渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきすみらみこと)とは『大きなヒスイ玉を祀る宮に住む天皇(大王)』というほどの意味になるでしょうか。

 『渟中倉』は日本書紀(神功皇后(じんぐうこうごう))にも『大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)』の記述があります。神功皇后が三韓征伐(さんかんせいばつ)からの帰途、神託により住吉三神(すみよしさんしん)を祀ったと記される場所で、大阪湾を挟んで、本住吉神社(神戸市東灘区)と住吉大社(大阪市住吉区)との間の始源地・比定論争で登場する地名です。
 いずれにしても、韓半島~瀬戸内海航路の終結点である難波津とヒスイの所在を示唆する渟中倉(ぬなくら)には、海人族が信仰する住吉神を介して、深い関連があることを示唆しています。

 敏達天皇は、かつて日本府(にほんふ)があった韓半島の任那(みまな)の復興を目論み、日本から百済(くだら)にわたってNo2の達率(だちそち)に上り詰めた日羅(にちら)を、敏達が別邸として使用していた五条宮(大阪市天王寺区)に招聘した(583)と(地元では)伝えられています。ご覧のように五条宮(現在は社殿)は四天王寺の至近。
 個人的には欽明天皇の難波祝津宮(なにわはふりつのみや)は五条宮(周辺)で、後の四天王寺の創建(593)に関係したと推理しています。(写真中央:左の門柱碑に欽明の文字)


 また、敏達天皇は継体天皇(ヲホド王)の孫であることから、糸魚川の日本海から越前(福井)~琵琶湖~淀川を通じての原料調達ルート、そして前章で紹介した加工地としての難波玉作(なにわのたまつくり)も含めて、ヒスイのサプライチェーンとして繋がっていることが確認できます。


 これらの古墳時代後期にあらわれた『点』が、古墳時代中期(AD300年代)の倭の五王時代の歴史と『線』としてどのように結びつくかを考えると、ヒスイをモチーフにしたひとつの古代史の事実が浮かび上がってきます。
 倭の五王時代は日本から積極的に中国の王朝に冊封(さくほう)を求めている点が特徴です。冊封とは中国王朝に対して周辺国が名義上の君臣関係を結ぶことですが、なぜこの時代に海を隔てた日本がそのような関係を結ぼうとしたのでしょうか。
 古墳時代後期、継体天皇から敏達天皇の時代を含め、飛鳥時代に白村江(はくすきのえ)で敗走する(663)まで、ヤマト王権は韓半島情勢に深く関わっていたことを考え合わせると、日本は

ことの裏付けになります。
 その利権とは何か。それが前章最後で紹介した鉄マーケット(への参画権)です。

 古墳時代中期は、全国で前方後円墳が造営され、中でも百舌鳥(もず)古市(ふるいち)古墳群に代表される巨大古墳の時代で知られます。同時に全国で稲作に適した治水干拓工事が盛んにおこなわれました。
 たとえば河内では、淀川と大和川の自然流入と土砂の堆積に対処した時代。仁徳天皇期、茨田堤(まんだのつつみ)で氾濫を抑えるために全長約20キロ(推定)の水路を拓き、難波の堀江(なにわのほりえ)を開削して難波津(なにわのつ)に水を逃がすことで、広大な稲作地帯、現在の大阪平野の基盤を築きました。
 (図:水都大阪HPの中から仁徳期に最も近い地形図に、①茨田堤(まんだのつつみ)、②難波の堀江(なにわのほりえ)の土木工事の推定ラインと主要地名(青文字)を書き込み。①の南ラインは開物の想定。他は定説による)



 これほどの巨大土木工事を同時に遂行するには、耐久性とともに様々な道具への加工性に優れた大量の鉄器が必要で、これらを半島から鉄鋌(てつてい)の形で輸入していました。


 鉄鋌は、これを加工して工具や農具にする原材料ですが、ご覧のように、対価する物と等価交換するための秤量(ひょうりょう)、そして(長期)輸送に適した形をしています。
 前章で紹介した 諸市買皆用鐵 如中国用銭、「(いち)では中国で銭を用いるように皆、鉄で買う」の

として使用されていたと容易に想像できます。

 では日本人(倭人)はこの鉄鋌を何と等価交換していたのでしょうか。もちろんそれは日本の特産品であればあるほど良いことになります。
 考え得る限り、それは硬玉ヒスイ(Jade、ジェイド)しかありません。
 (写真:翠玉白菜(すいぎょくはくさい)(国立故宮博物院、台北市)★あくまでも中国王朝では硬玉ヒスイが珍重されている例として★翠玉白菜のヒスイ原産地は雲南からミャンマーと

されています(Wiki))



 中国では軟玉ネフライトも高貴とされましたが、さらに硬くて加工が難しい、しかも緑青色の輝きが美しいジェイドは(ぎょく)として特に珍重されました。
 半島南部の鉄マーケットで鉄鋌(加工鉄)とヒスイが交換され、調達されたヒスイは半島北部の国境の帯方郡(たいほうぐん)で、他の対価物と交換され、最終的に中国王朝の手に入る・・・そのような経済サイクルが、日本-韓半島-中国の間に構築されていた可能性はかなり高いと思われます。

 では、日本側でそのビジネスに参画し、日本-韓半島の物流を支配し、かつ、ヒスイ原石を入手して加工できるモノづくりの力を有していたのは誰か。
 古墳中期の史料、そこから推定される権力構造(豪族のパワー)、様々な角度から考えて、物部氏(もののべし)の他に有力な候補はいません。
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