19)海人族を丸ごと掌握した天皇、海人族の王

文字数 2,136文字

 天武天皇は君臨してからの事跡は溢れるほどに伝えられているのに対し、大海人皇子の時代-出生から壬申の乱を勝ち切るまで-の大部分が史料では不透明です。
 その謎を解く糸口が、奥明日香・入谷(にゅうだに)の伝承が示唆する、縄文血統の人々との強い絆ではないかと考えています。

大海人(おおあま)」という特徴のある名は、幼少期より皇子を養育した大海(おおあま)(凡海)氏に由来するという説が有力です。現在、住吉大社の境内に鎮座する大海(だいかい)神社を氏神とした一族だった、まではわかっていますが、大海(おおあま)氏がどういう一族だったのか、また、母親の宝皇女(たからのひめみこ)(皇極-斉明女帝)との関係はよくわかりません。

 よってここからは各種史料に基づく考察になるのですが、まず結論から。
 大海氏は安曇(あずみ)(または、あど)氏系、中でも遅くとも古墳時代初期(応神期)から大臣を輩出し、やがて、王権の宮城(きゅうじょう)警護(近衛兵、親衛隊)の役割を担った大伴(おおとも)氏の系統と考えています。

 大阪・住吉大社の摂社・大海(だいかい)神社は、安曇氏、大伴氏、大海氏が交差する点です。


 続日本紀には古代難波の入り江に阿曇江(あずみのえ)(または、あどのえ)があったことが書かれています。地元では墨江(すみえ)などの地名から、住吉の「住」は深い入り江の「墨」色に由来するという説が根強いですが、それよりも、古代史における北九州~瀬戸内海~難波津の繋がりによる、安曇(あずみ)の「(すみ)」に由来とする方が自然と考えるようになりました。

 安曇氏は、博多湾・志賀島(しかのしま)志賀海(しかうみ)神社を発祥とし、祖神の綿津見神(わたずみのかみ)(三柱)を御祭神とし、歴代の神職は阿曇(あずみ)氏。住吉・大海(だいかい)神社境内には、住吉大社が勧請した志賀神社があります。

 大伴氏は摂津国住吉郡を本拠地とした安曇氏(海人)系の豪族で、たとえば継体(けいたい)天皇をヤマトに招聘した大伴金村(おおとものかねむら)が知られています。日本書紀(欽明期)には金村は「住吉の宅」に居館を構えていたと記録されています。
 継体期(第26代)から欽明期(第29代)にかけて、天皇の広域移動を支え、住吉津~淀川~琵琶湖(例、安曇川地方)~北陸日本海(特に九頭龍川(くずりゅうがわ)下流域)を繋ぐ海・水・陸の交通を掌握しました。壬申の乱を契機に、天武期に安曇氏の海人勢力から戦闘集団としての来目部(くめべ)(久米部)や靫負部(ゆげいべ)を組織化し、宮城警護にあたる役割を担うとともに、大和国高市郡(たかいちぐん)築坂邑(つきさかむら)(現在の奈良県橿原市鳥屋町、橿原神宮の南)などに拠点を置きました。大和国では大王家のいる三輪山麓の南側、大和川(初瀬川)から飛鳥川、さらには高取川一帯を拠点としたようです。
 (古墳時代~飛鳥時代の古代豪族の勢力図)



 橿原神宮を見下ろす畝傍山(うねびやま)山頂には、住吉大社の禁足地のほか、麓の畝火(うねび)山口神社は神功皇后や住吉神(表筒男命(うわつつおのみこと))を祀っており、このあたりにも、安曇海人系の大伴氏の影響が及んでいたものと思われます。(畝傍山山頂、住吉大社禁足地)


 実は、ここで取り上げた

ことは、日本古代史を考える上での重要な観点を与えてくれます。
 ◇まず第一に九州から瀬戸内海にかけての安曇、
 ◇第二に日本海から琵琶湖・淀川経由の安曇、
 ◇第三に前章(マップ)で示した奥明日香から入谷・吉野・国栖経由で伊勢、渥美半島に至る安曇が、
 ◇「住吉津からの大伴氏(大海氏)」で一気に繋がります。(この区間の確認と考察にずいぶん時間を取られました)

 良く知られていますが、安曇は、阿曇・阿積・厚見・厚海・渥美・阿積・英積・熱海(あたみ)飽海(あくみ)温海(あつみ)、さらには、おそらく安土(あづち)・安東・阿刀(あと)などなど、多様な地名や人名として、列島の広範囲に広がっています。また穂高・志賀・滋賀なども安曇との関係が確実です。

 記紀の編纂に伴い、持統女帝・藤原不比等(ふひと)の命で、安曇氏が朝廷に提出した纂記(さんき)(系図)には、十六家(春日(かすが)、大伴、佐伯、雀部(ささべ)、阿部、膳部(かしわでべ)、穂積、采女(うねめ)、羽田、巨勢(こせ)、石川、平群(へぐり)木角(きずみ)、阿積、藤原、上毛野(かみつけの))が記載されています。これにより大和豪族の羽田、巨勢(こせ)、石川、平群(へぐり)も安曇氏系ということがわかります。不比等(ふひと)が属する春日、藤原も含まれています。春日は鹿嶋(かしま)が訛化した名で、もとは鹿嶋神宮(茨城県)を本拠とした一族ですが、こちらも安曇の海人族系で、そのことを不比等(ふひと)も認めていることになりますから、驚くべき話です。(写真は祇園祭(後祭)大船鉾 御神体 安曇・住吉・鹿嶋、三海神の揃い踏み)


 要するに、列島を海路・水路・陸路のネットワークでつなぐ海人族は、基本的に安曇を同祖としており、大海人皇子こと天武天皇は、壬申の乱の前後を通じて、日本海・瀬戸内海・太平洋の海人族を

した初の天皇、つまり海人族の王ということになります。

 なるほど、天智・弘文天皇親子にとっての壬申の乱は、海と陸の機動力、情報力の点で、最初(はな)から勝てる(いくさ)ではありませんでした。

 ただ、大海人皇子が持つこのような集結パワーは、相当の権威を内包したバックボーンがないと不可能に思われますが、なぜ大海人皇子が、生まれながらに『それ』を持っていたのかは、お母上の宝皇女(たからのひめみこ)に聞かない限りわからないことで、今となっては解けない謎かも知れません。

 少し長くなりましたが、前章とあわせて背景情報を整理しました。次回、なぜ、これらの史実がアラハバキにかかわるのか、考えてゆきたいと思います。
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